もしある日、世界から日本人以外の人々が消えたとしたら、文明はたちまちのうちに崩壊するでしょう。世界は地獄と化します。「食べるものがない? しょうがねえだろ。お前らで何とかしろよ」と耐乏精神と自助努力が奨励されます。困難に直面しても、そのまま受け入れるだけです。一方で税金は上がり、守らなければならないルールは増えていきます。しかし何の改善もできず、誰も責任をとりません。
エンジニアリングの類は、目に見えるし触る事も出来るので、多少継承されますが、日本人は原理を理解していないため、新しいものを生み出すことはできません。現状維持が精いっぱいです。そのうち日本風にアレンジされ、簡素化されていきます。やがて文明の痕跡は儀式や祭り、宗教にその痕跡を留めるだけになります。そうして人々は、映画「未来惑星ザルドス」の獣人のようになっていきます。時々、個人的な発明や発見があっても、それは暇人の趣味にとどまり社会に浸透する事はありません。
日本の欠陥のひとつは、自分達の現状をそのまま批判検討もせずに受け入れてしまう所です。異世界からやって来た人々にボコボコにされると初めて目が覚めます。途端に自らの文化を否定し「あいつらを見習わないとダメだ」とばかりに猿真似の時期がしばらく続きます。誇りをかなぐり捨ててまでコピーに専念しますが、それもまた是としてしまうのです。しかしある時期に来ると「もはや学ぶ事は何もない」となり「日本回帰」が始まります。浮ついた享楽と崩壊の時期です。外の世界はまったく目に入らなくなり、ひたすら日本を褒めたたえ、飽くまで「現状肯定」をつらぬきます。
鎖国状態ならば他の国に迷惑をかけないで済みますが、臨界点に達すると周辺諸国を巻き込んだ破壊的行動に出ます。しかし鎖国にしても、それは何を生み出したでしょうか? 元禄文化? 歌舞伎、浮世絵? 吉原? 米の先物取引? それは果たして文明と呼べるものでしょうか? 数百年に渡る停滞が続きました。現代でも多くの人々は精神的鎖国に陥っています。
日本人は目に見える「お手本」が存在する時にだけ真面目に努力することが出来ます。ところがある時点でそれが見えなくなったり、「追い抜いた」と勘違いして傲慢になると、たちまち腐敗が始まるのです。
文明の発展は、「個人」が「理想」を追い求めて優れたアイデアを出し、それを「集団」に積極的に提供し、それを財産として共有する仕組みがあることに依存します。いうなれば「神」「私」「あなた(がた)」の違いを人々が明確に認識しているからこそ、可能な事なのです。
文明世界を切り開いた人達はまず「文字」を作り出しました。そして彼らは文字を使って抽象的な「理想」を頭に描いていきます。それは「神」や「天道」といった形で自分の「外」に投影されます。同時に、それと対峙する意味での「私」という概念も生み出します。
「隋書倭国伝」にあるように、倭人は文字を持たない人達でした。日本人は今でも言葉を扱うのが苦手です。分野毎に専門用語が違い、体系的に言葉が出来ていません。新しい分野でも、本質をつかんで相応しい言葉を慎重に選ぶのではなく、拙速に新しい漢字やカタカナを作ってしまいます。人々は言葉を当てはめただけで、分かったような気になります。
英文を読み進んでいくと、頭の中に分野を横断して「大木」が自然と出来上がってくるのに対し、日本語は分野毎に小さな「盆栽」があるようなものです。なるほど、細かい所は良く出来ていますが小さくて役に立ちません。分野を移る度に、盆栽Aを捨てて盆栽Bを初めから育てていかなければなりません。
少しずつニュアンスの違う類義語が豊富にあるのは文芸や詩的表現には良いですが、大勢の人々の頭を混乱させる原因にもなります。
「言葉」「理想」「私」「あなた」「集団」「社会」は密接に繋がっています。日本人は文明国から文字を教えてもらいましたが、抽象的な概念を掴むのは未だに苦手です。理想を描くには、あまりにも人間に対する尊厳が欠けています。言葉が不完全で、個人と集団の境界が希薄だからです。
彼らの頭の中では、私=日本になっています。「偉いAさんも、先生も、親も、仲のいいBちゃんも『正しい』って言ってる。だから(私も含めて)日本は悪くないんだ!」という訳です。
自己反省や批判の無い所に進歩はありません。こうして日本の転落は続くのです。