日本人は日本語を苦手とします。そもそも彼らは言葉をうまく扱えないのです。外国人との意思疎通どころか、日本人の間でさえコミュニケーションが成立しません。
単純な「AはB」という文を見てみましょう。これは必ずしも、AとBが論理的に等しいという意味ではありません。
例えば「春は曙」「俺はビール」といった文です。「春はなんと言ったって曙が一番良いと私は思う」「俺は何が飲みたいのかというと、それはビールである」という文章が省略されたものです。Aという話題を持ち出して、それに関連した事がらを加えていくのが日本語です。しかし「どういう関係か」という点が曖昧なのです。
考えられる人は、足りない言葉を適切に補えます。そういう人は英語でも日本語でも不自由はしません。しかし日本では、省略された状態で受け取ってしまう人も多くいるのです。曖昧なまま、何となく相手の感情を理解したつもりになっています。
喋る場合も、日本語では語順がどうでも良いので、よく頭の中で整理しないまま語りだしてしまいます。思いつくままに事がらを、適当な格助詞でつなげていくのです。
また日本語では、最後に助動詞を重ねる必要がありますが、それを幾つか省略してしまう人がいます。文末が短くなるので威勢は良いですが、意味は不明瞭になります。
長い文を「~でありますが」というように、「が」を入れて何処までも続けていく人もいます。動詞が来る頃には、それらがどういう関係だったのかが分からなくなります。
パラグラフ単位では意味が通っているように見えても、文章全体では何を意図しているのかが理解不能というものもあります。文字制限のあるSNSや、短い言葉で応酬する匿名掲示板に慣れ過ぎたのかもしれません。
ある社会学者の本にこんな話が載っていました。講演をしていると皆が眠そうにしていました。ところが「海外の有名な誰それによりますと~」と言い出すと、一斉に目覚めて、メモを取り始めるのだそうです。
話を聞く方も、講演者がどういう視点を持ち、全体としてどのように考えているのかは、どうでも良いのです。些末な知識やノウハウだけが関心時です。日本人に受けるためには、冗長で退屈な話のなかに豆知識のようなものを少し混ぜておく必要があります。そうすると彼らは喜びます。
日本では、上の立場に居る人は、長く喋らなければなりません。短いと威厳を保てません。けれども内容があってはならないのです。他人と異なる見解があったり、他から異論が出るようなスピーチは最悪です。念仏のように「何を言っているのか分からないが、有りがたい」という文章が無難です。
本を読んでも、三分の二くらいが「言い訳」めいた事で占められている事があります。
情報は多ければ多いほどノイズに近くなります。しかし日本では、出来るだけ言葉の量を多くして、相手を煙に巻く必要があるのです。誰も刺激しないように、そして誰にも突っ込まれないように、そうするのです。
日本人は訳のわからぬ事を言う一方で、他人の言葉を誤解する名人です。例えば報道でも「〇国と△国が激しい非難の応酬を繰り返しました」と、まるで公式の会議で何やら喧嘩でもしていたかのように書き立てます。冷静に交渉をしているだけなのにです。
及び腰で相手の意見に何でも賛同し、カネを献上するのが日本の外交です。そうかと思えば、威勢よく非難だけ浴びせかけて、背を向けてそそくさと退散する事もあります。へりくだるか、空威張りかのどちらかしか出来ません。
彼らには感情的な先入観があり、それに沿って相手の意図を曲解します。また先入観に沿って言葉を語ります。これでは外交どころか、コミュニケーションも成立しないのが当たり前です。
言葉は重要です。言葉とは理性(ロゴス)です。「初めに言葉ありき」というのは、それを象徴的に表しています。ヒトは言葉を発するようになり、やがて文字を発明しました。言葉を石板に刻みこむ事で律法が生まれました。人々は進んで法に従うことで、協力し合い、秩序が保たれるようになったのです。
法は時間や空間を超えます。こうして大きな国家を築くことが可能になるのです。文字は、ヒトに大きな力を与えました。ヒトが思い描く究極の理想を外に投影したのが「神」なのです。
自ら文字を作り得なかった日本人には、理性や法、そして神といった概念は極めて異質で馴染めないものなのです。
理想を描き、抽象的な思考が出来たギリシャ人、巨大な組織運営に優れたローマ人、物事の本質を見抜き、それを形にする事ができたケルト人、そういった先人達の力があったからこそ、今の文明があります。
翻って日本人は、社会秩序を保ち人々を協力させるために恫喝や暴力を用います。国を運営するために独裁政権のような組織を必要とします。「神」を与える代わりに「神国」を連呼します。しかし食糧は与えません。人々は精神力だけで動く事を期待されています。
言葉を軽視する日本人は、世界で一番契約を守らない人々でもあります。その為に世界中でトラブルを巻き起こしています。企業間の契約書に「瑕疵担保責任は無い」とあっても、無制限に責任を求めてきます。契約書があっても、結局は馴れ合いや力関係で物事が決まると思っています。法も契約もあったものではありません。外国人にとって見れば、日本人との交渉が嫌になるのは当たり前です。
日本語をきちんと教育すれば、日本人はマシになるのでしょうか。教育の現場を見ると、現代国語は道徳の授業と化しています。国語の試験問題は、出題者の意図を察すれば解けるというものになっています。論理学は数学の分野で少し扱われる程度です。修辞学はありません。授業では、表現が豊かな詩を味わうのではなく、究極まで省略された俳句が良いとされています。
独裁国家や軍隊では言葉が単純になります。言葉は単なる号令です。発破をかける掛け声に過ぎません。サーカスで動物を鞭打つのと同じことです。上官の命令に対して言葉を返す兵士が不要であるように、発言する日本人は不要です。
黙々と奴隷のように仕える多くの日本人と、世襲により地位を約束された人々がいます。二流、三流の下で、一流が使われる社会です。日本が二流国家から抜け出せない理由です。
日本は既に Point of no return を過ぎてしまったのかもしれません。しかし、自分の運命は自分で変える事ができるのです。