「ヘレディタリー」は2018年のホラー映画です。悪魔に憑依される呪われた家系を描いています。タイトルとなっている「ヘレディタリー」は血筋や家系からもたらされる「宿命」とも言うべきものです。
主人公は代々の旧家の出です。夫は精神科医。自身はミニチュア模型作家で収入も得ています。母親とは長らく疎遠でしたがその母が死んでしまいます。しかしその後で様々な怪奇現象が起こります。娘も悲惨な交通事故で死亡します。怪奇現象はますますその度合を深めて行きます。
ここで力を振るう悪魔は、200の軍勢を従え人間に知識と富を授けるとされるパイモンです。17世紀の文献「ソロモン王の鍵」に書かれています。 女性の顔を持ち、王冠を被っています。彼はまず「弱い器」である女性に憑依し「完璧な器」である健康な男性の体を乗っ取り王として君臨する事を目的とします。(「弱い器」という表現は新約聖書「ペテロの第一の手紙」にあります)
日本では悪魔と聞くとリアリティが無いように感じるかもしれません。日本の怪談で出てくる妖怪が象徴であるように、悪魔も象徴です。
パイモンは17世紀の悪魔学によって生み出された悪魔のひとつです。未だ魔女裁判が盛んだった時代です。悪魔学により悪魔を詳細に分類し、どの悪魔が引き起こした現象なのかを判別して判決を下すのに役立ったのです。
悪魔は、自分や他人の心に潜む悪意を象徴しています。人間の心ほど恐ろしいものはありません。日本の場合、自然現象を恐怖の対象とします。けれども自然は科学やエネルギーによって克服されるものです。盲目的に怖がる対象ではありません。
しかしながら人間はそうではありません。自分と知能や力が大差ない存在が、他にも居るのです。これは恐ろしいことです。殺人事件の犯人の多くはその家族です。他人が自分の敵とならぬよう、自分の不利益とならぬよう、あらゆる手を打っておく必要があります。
映画でも主人公が、母や家族への嫌悪だけでなく、子供への憎しみを思わず吐露してしまう場面があります。
とはいえ、他人を悪魔と同一視する習慣は、同時に何をしても良いという免罪符にもなります。
欧米ではオスマン帝国や現代のイスラム原理主義国家に対する憎悪が根強くあります。異教徒との混血とみなされているロシア人も嫌悪と恐怖の対象です。力のある異教徒は憎悪し、力なき異教徒は軽蔑するのです。同じキリスト教徒であった大戦時のドイツは、自分の内なる悪魔的性質に対する憎悪と戒めです。
彼らの憎悪は生き残るための宿命といえます。ヨーロッパの歴史は闘争と支配の繰り返しです。しかし最後はヨーロッパ全土が廃墟となりました。
知識と富を得るためには何かを犠牲にしなければなりません。それらを用い人と自然を支配する事で安心が得られます。そのために人は時に、悪魔のように考え、悪魔のように行動する事もあるのです。
そうは言っても、我々は「悪」と向き合うのを避けるべきではありません。悪魔に支配されるという「物語」は、悪魔すなわち「宿命」に抗う事ができるという「希望」をも同時に示しています。
心に潜む悪を「悪魔」として対象化するのは無益なことではありません。むしろ日本のように戦争や蛮行を「人間の狂気」と表現し向き合うのを避ける方が遥かに有害です。日本は、悪しき行いを、宿命として共存する道を選んでいるのです。自分の悪と向き合うこと。それが真の反省と進歩に繋がるのです。