kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

日本人の行動原理 -文明人になりそこなった日本人-

日本人に共通してみられる行動の背後にあるものは何でしょうか。それによって日本人の行動を予測できる、シンプルな原理や仕組みがあるのではないでしょうか。

 

日本人の行動を説明する要素として、仮に、次の2つをあげてみます。

(a)ヒトには上下があるという本能

(b)貧弱な想像力(即物的に考える傾向)

 

これとは反対に、近代人が備えていると思われる要素をあげるとこうなります。

(a´)ヒトは平等であるという信念

(b´)豊かな想像力(抽象的に考える傾向)

 

人間は、文字を発明することによって、高度に抽象的な概念を操作することが可能になりました。また文明が発達するのに伴い「個人」といった概念が現れ、「平等」が目指すべき理念となったのです。

これが近代人です。とはいえ、ヒトがこれらの能力や信念を身に着けるようになったのは、そんなに昔のことではありません。

文字の発明から1万年も経っていません。また、絶対者に対峙する個人や、平等といった概念も、約2千年ほど前からのことに過ぎません。同じホモ・サピエンスであったとしても、この点において違いがあるのは、何の不思議でもないのです。

日本人は、これらを身に着けそこなった、あるいは上手く使いこなせていない人々なのです。

 

ここで、上にあげたそれぞれの要素について具体的に説明します。

(a)ヒトには上下があるという本能

人間には序列があるという本能です。群れをなす獣や家畜にも序列関係があります。日本人は相手の序列によって態度を変えます。上の者の指示には奴隷のように従う一方で、下のものには無慈悲な圧制者となるのです。

日本では、縦方向と横方向の人間関係が矛盾する場合、上下の人間関係を優先します。家族や友人を犠牲にする事も厭いません。彼らには「愛」「友情」といった概念さえも、終(つい)ぞ芽生えることがなかったのです。


(b)貧弱な想像力(即物的に考える傾向)

日本人の人間関係は狭く、「ムラ」と呼ばれる狭い範囲でしか、ものを考えられません。人間が直接に社会関係を築ける人数の上限は、150人(ダンバー数)と言われています。日本人の上限はもっと低いのかもしれません。

直近の上下関係だけを意識していれば、それだけ頭を動かさなくても済みます。彼らは獣や家畜と同じように、余計なエネルギーの消耗を防いでいるのです。

想像力が不足しているために、ムラ以外の人々について思いを馳せることができません。他人への共感力がないので、他国の人々に同情することなどは不可能です。

彼らは、自分や現在のことしか考えられない人達です。過去も未来もありません。表面的なものに騙されやすく、本質を見抜く事ができません。人生の目的を持たずに、ただ言われたことを黙々とこなすだけです。

彼らは聴覚ではなく、視覚で物事を捉える人々です。即物的なものに惹かれます。猿真似は得意です。知性を備えていれば、視覚芸術、数学や物理学、工学で秀でた才能を発揮する人もいます。

 

日本人が想像力に欠け、「ヒトは平等である」という信念を持てないのは、言語操作能力が不足しているせいでしょう。日本には、大陸や半島から伝わるまで文字がありませんでした。

日本語の構造も、彼らの思考の限界を示しています。言語というのは時間軸に沿って直線的に流れていくものです。つまり、単語の並ぶ順序が大切です。ところが日本語は、順序が滅茶苦茶でも許されるのです。

さらに言語は階層構造を成しており、それぞれの単語が集まることで、部分の総和以上の概念を伝えることが出来ます。言語は二次元的な構造を持っているのです。

ところが日本語は、個々の単語レベルの情報を伝えるだけに留まっています。主語も動詞も必要ではないのです。ただの名詞の羅列です。彼らの思考が、具体的なレベルで終わってしまうのには、こうした理由があるのです。

多くの日本人は、視覚的に文字を捉えるために、目に入った単語を適当に結び付け、自分勝手に解釈してしまうのです。これでは意図が伝わりません。会話になると、論理的な話題を続けるのはほとんど不可能です。

 

高度に抽象的な思考には、表音文字が役立ちます。聴覚と視覚を統合し、さらに左脳の論理的思考と右脳のイメージが連携します。文字というシンボルを用いて、抽象的思考、具体への展開が可能になるのです。

日本人が聴覚的に言葉を捉えられないのは、朗読をさせて見るとよく分かります。黙読する場合でも、粗雑な速読のように読み飛ばしており、深く理解していません。

音読によって、まず直列的な構造を捉え、そのあとに階層的な構造とその意味合いを理解するという段階を踏むべきなのにです。日本人は教育を受けても、初めの一歩でつまづいてしまいます。

 

日本人の思考様式を、鏡のように映し出しているのが日本語なのです。日本語の限界が、彼らの思考力の限界でもあるのです。

日本語が未発達なのと、(a)群れて序列を作る本能から逃れられないこと、(b)想像力が足りないことには相関があります。しかし原因はまた別のところにあります。

 

日本人は「自己」も未発達です。自己というのは、自分の行為に対する後付けの解釈者、観察者です。無意識の行動を、言葉で解釈しているのです。言葉があるからこそ、ヒトは過去と未来を認識し、ナラティブ(物語)を語るようになったのです。経験から学び、計画を立てられるようになったのです。

そこが、ヒトと動物との違いです。動物にも意識はありますが、自己はありません。自分を第三者的に省みて、未来を思い描くことができるのが「自己」なのです。

 

近代人が生まれた流れをまとめると、(1)文字の発明→(2)抽象的思考能力の獲得→(3)自己の出現→(4)個人の尊重となります。

個々人の成長の過程においても、この段階を正しく踏んでいないと「ヒト」にはなれません。本能に囚われたままのケモノに過ぎないのです。

 

なぜ日本人は文字を発明できなかったのか、また、教えられた文字を未だに使いこなせていないのは何故なのかという疑問は、これからも考えてみたいテーマです。

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