日本人は人間を道具として利用します。日本人の多くは誰かの為に生きています。自分のために生きていません。日本はそれ以外を認めません。それを良いことと見做しています。なぜ人を道具として用いる事は間違いなのでしょうか。そして何故こんな事が起こるのでしょうか。
「人権」という考えは18世紀のカントの思想によって大きく前進しました。カントは戦争と混乱の世で「どうしたら人間は普遍的真実に辿り着けるか」「どうすれば恒久平和を達成できるか」という問いを追求した人です。
人間はそれぞれの認識の枠組みによって世界を見ています。たとえば我々は生まれながらにして全ての物事に因果関係や目的を嗅ぎ取る傾向があります。そのために不注意な人間は陰謀論に陥ります。
感覚やそこから得られる通常の理解(感性と悟性)では、人は互いに分かり合う事ができません。そこから更に発達させた「理性」が人類の共通言語として必要だとカントは主張したのです。
カントの言う「理性」(Reason)は「強い意思で自ら問いを立てて考える」という行動を通じて陶冶されます。もっとも近いのはリベラル・アーツの教育です。これが無ければ人間は「悟性」(Understanding)の状態に留まります。つまり頭が良くて特定の知識が豊富。理解力もある。言葉も流暢。しかし自分で考えられない。理性が無い。こうした人間が出来上がるのです。カントはこれを「未成年状態」と呼びました。
日本はまさに一億「未成年状態」です。それどころか「感性」状態に留まっている人間すらいます。見たまま。言われるがまま。それに従い動くだけの生き物です。つまり「大人」ではなく「子供」です。
カントは道徳・倫理の分野も体系体に整理しました。有名な彼の定言命法を簡単に述べると次の通りです。①普遍的なルールに合致するように行動せよ。②人間を目的として扱え。手段として扱うな。③そのルールを自分で定めたかのように行動せよ。この3つです。
もし人間がそれぞれ勝手に行動したらどうなるでしょうか。社会は崩壊してしまいます。そのためには①が必要です。行動する際に「もし全ての人が私の格律に従って行動したらどんな事になるだろうか?」と常に自問自答するのです。新約聖書に書かれている黄金律「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と同じです。
人間は自分が生きるために自然や他のものを手段として用います。それはやむを得ない事です。しかし他人や自分を完全な手段として扱ってはならないのです。それが②です。手段化は「自己疎外」へと繋がります。
最後に③です。社会を成り立たせる為に様々なルールがあります。しかしそれに嫌々従ったらどうでしょう。不満が溜まります。これは自ら自分を「手段化」しているのと同じだからです。そうではなくて自分でそのルールを決めたかのように行動するのです。そのためにはそれぞれの法律の意味を理解し納得した上で行動しなければなりません。
人間が「理性」を発展させれば、当然このような理解に至るはずです。それにより人間は初めて対話が可能となり、平和を実現することが出来るのです。これがカントが考えた事です。
カントは神についても言及しています。カントは、神の存在は証明できないとしました。当時の時代背景を考えると「神はいない」と言ったも同様でした。当然多くの人々の批判を受けました。そのうえで、神の存在は「要請」であるとしました。もし神が存在しなければ我々の道徳は崩壊してしまうと考えたのです。要するに「神はいないが、あるかのように行動する」という事です。
またカントは「生物の合目的性」についても言及しました。生物がまるで「誰かが造った」かのように目的を持たされているように見えるが、それは実際に目的を持っているわけではなく、我々が自然に美しさを感じ理解するための道具、思考の枠組みだとしたのです。
彼は「神」と同じ様に「魂の不滅」と「自由」も「要請」としました。もし人間が仮初めの存在に過ぎないと考えたら、人間は虚無主義に陥り進歩は止まってしまうでしょう。また「自由」が無ければ人間は強制的に「手段化」されるという事になりモチベーションを失い生きる意味も無く自己疎外に陥ってしまうでしょう。
つまりたとえ「神」「魂の不滅」「自由」が幻想に過ぎないとしても我々はそれを信じるべきなのです。それらを道具として利用する事が、我々の進歩と幸福へと繋がるのです。
このようにカントは、真理に近いところに到達しながらも、虚無主義に陥ることを巧みに避けています。現実主義者であると同時に理想主義者でもあったのです。
日本人はこのような「人権」の背後にある思想的背景をまったく理解していません。だから何時まで経っても人権を理解できません。「未成年状態」に留まっているからこれから理解できる見込みもありません。
SNSで日本人に依るこんな書き込みを見つけました。ある父親が娘に教える「人生の仕組み」というものです。若いうちに受験勉強に励めば人生が上手く行くというものです。逆にそこで頑張らなければその後どうやっても人生は変えられないという教えです。
これは三重に間違っています。まず①国家の教えを無条件に信じ込んでいること。そして②絶対確実な方法がありそれに従えば成功すると思っていること。最後に③自分の子供にもそれを守るように教えていることです。
①ここでいう「上手く行く人生」というのはあくまで国や社会が要請している「人生」です。しかしそれが自己疎外に繋がったら何の意味があるでしょうか。表面的な成功は自分の幸せの達成という内面の目的とは関係がありません。むしろそれは資本主義社会の教えに従い自分を良い労働者にするという「手段化」になりかねないのです。ありていに言えば奴隷への道です。
②また現在あるシステムはそのまま未来永劫続く事が約束されたものではありません。それどころかそのシステムが今大きく揺らいでいるのが現実なのです。「システムがこれまで通り続く」という前提を信じ呑気に構えている場合ではないのです。
③さらにそれを次世代にも引き継ぎ、奴隷の再生産を促しているところが罪深いです。まさに「魚を求めているのにヘビを与える」親という表現がぴったりです。もっとも理性を備えた人間であればこれを信じ込むとは到底思えませんが…。
このように日本では、現状のシステムが与えた「手段化」の仕組みを人生の目的として積極的に取り込んでしまう人がいるのです。悟性のみで理性を欠いた人々です。
資本主義の世界では全てがカネで手に入ります。カネは人間の活動全てを手段化してしまう可能性があります。カネを貰うと人間は意識しなくてもスポンサーの為に動いてしまうのです。自分の手段化です。相手との間に強弱や上下の関係があれば尚更です。
さらに日本では上で述べた事例のように、人の「手段化」を当然とする土壌が根強くあります。日本は昔から厳格な階級社会でした。巨大な古墳の数々を見てください。あれがピラミッド建設時の様に、ビールや食事を振る舞われながら作られたとは到底思えません。日本では身分を含めて全てが血筋によって決まりました。階級の流動性はほとんど無かったのです。朝鮮半島から渡ってきた人々に日本が支配されてからは、土着民は彼らの私有財産となりました。
平安貴族は現世利益を求める人たちでした。努力によって将来が大きく変わることもなく、その代わりに日々の恋愛や詩歌、季節ごとのイベントに興じたのです。儚さを感じながらも一瞬一瞬に生きる人たちです。海外の支配層が絶えず外敵との闘争を繰り返し支配権の拡大を夢見ていたのとは対照的です。日本のような土地に居ると、外敵がせめて来る脅威、あるいは海外へ乗り出して領地を拡大するといった夢は、想像の範囲を超えていたに違いありません。
とはいえ大陸の支配を避けながら僻地の土着民を支配して自由に豪勢な暮らしをするのは大変心地よい事だったのです。
外界から隔絶された土地に住み、血筋によって階級が固定化されるような社会では、無条件に下の者が上位者に奉仕する事が当然とされたのです。「諸行無常」の世で未来や進歩を考えずに生きる人たちです。それを何とも思わない人だけが生き残り子孫を設ける事が出来たのです。
文明が進むとシステム化が進みます。システムとは何でしょうか。それは人々を巧みに搾取する仕組みのことです。
人が集まると大きな仕事が生まれます。人を協力させる仕組みを作る。食料を安定的に得る。安心して子供を生み育てられるようにする。大人になった彼らを社会の成員として利用する。支配層が安心して暮らせる仕組みを作る。
そのためには人間を手段化して奉仕をさせる必要があったのです。自然発生的なシステムにはこのような目的があります。人間が理性で変えなえればシステムの性質はこのままです。
システムが高度化するともはや何処にも人間の姿が見えなくなります。ひたすら顔の見えない妖怪に人間が搾取される仕組みが生まれるのです。なんでこんな事をやっているのか分からない。倒すべき相手はいない。誰が悪いのでもない。しかしどんどん苦しくなって行く。開高健の小説「流亡記」には始皇帝が支配する秦を舞台に、このようなシステムの恐ろしさを描いています。
社会がある限り、人間の手段化はやむを得ません。しかしそれでも全てを手段化するべきではないのです。
システム化が進めば効率は良くなりますが、社会は柔軟性を欠き脆弱となります。環境が変わった時に社会全体が崩壊する危険性が高くなるのです。
システムを単なる搾取の手段としないために、人類はいろいろと工夫を施して来ました。そうして漸く現在のレベルにまで達したのです。このシステムを壊してはなりません。後戻りはできないのです。
もちろん単純に人間の手段化を無くせば良いというものでもありません。「目的があるからいいだろう」というのは「やりがい搾取」に繋がります。たとえベーシックインカムが整備されても「何もしなくても普通に生活出来るのだから幸せだ」とはなりません。目的と手段の割合は十分に考慮する必要があります。
ここで極端な例を考えてみましょう。究極の手段化とはどういったものでしょうか。それは人間の価値を全て数値で測ることです。カネで測られた価値に見合うような人間を産ませる。そのために親となるべき人間を選別する。品質を高めるために教育を施す。品質を見極めて子供を選別する。選別した人間に値札を付けて商品として売り買いする。一生のあいだ奉仕活動をさせ搾取する。価値の無くなった人間を廃棄処分する。こういった事です。
どうでしょう? 現在でもかなり人間の手段化が進んでいるとは言えないでしょうか。