人間は報酬そのものよりも期待に幸せを感じます。言い換えると人間には希望が必要です。これを理解することは重要です。
人が何かの報酬を受け取ると脳における側坐核のニューロンが直ちに反応します。さらに報酬そのものよりも「報酬への期待」のほうがより強くニューロンが反応することが分かっています。側坐核は人間の「やる気」「モチベーション」に関わるところです。
スタンフォード大学のブライアン・クヌートソンにより行われた実験では、お金そのものよりも「お金を受け取れそうだ」という期待を抱いた時が一番反応が強かったのです。それは「ヘロインやコカインでハイになっている人の反応と見分けがつかない」程の反応だったそうです。
たとえば、走る為ではなく見栄のために欲しいと思ったクルマは、実際に届いてもそれ程嬉しくはないものです。手に入れるためにあれこれ計画をしてそのクルマが届くまでが幸せだったのです。
一方で人間は損失を嫌います。利益を得るよりも損をすることを遥かに嫌がるのです。ダニエル・カーネマンによると損失回避の度合いは利益に対して約2倍である事が分かっています。
さらに人間は自分だけが損を被るくらいなら相手を道連れにしてより大きな損を被っても構わないとさえ考えるのです。
人が損失を予期する場合には前部島皮質が強く反応します。前部島皮質は身体の内受容感覚を統合し、土台となる情動を構成します。それゆえ人が損失を予期した場合には何とも言えない不快感に襲われ、そうした事態を避けるようになるのです。
利得と損失のどちらに大きく反応しやすいかは遺伝により個人差があります。また状況によっても変わってきます。日本人は遺伝的そして環境的要因によって損失回避傾向がより強いという事が分かっています。
このような事実を利用して人をコントロールする事も出来ます。たとえばカジノではフリードリンクや食事が振る舞われます。エスコートする女性が提供されることもあります。
「自分は得をしている」「良い扱いを受けている」という感覚が側坐核を刺激しギャンブルへと向かわせるのです。同じ様にカジノの刺激的な音や光は「みんなが儲かっている」「自分も速く儲けなければいけない」という心理へ向かわせます。スロットマシンでは「あともう少しで勝てた」という状況を意図的に作り出しています。
実際に勝ってしまえば人は満足しそこで賭けを辞めてしまうかもしれません。しかし「勝てそうだ」という状況ならば側坐核を大いに刺激し賭けを続けるのです。
投資における一任勘定の取引でも、同じ様に人間の心理を利用します。最初は大いに勝たせたり、「あともう少しで大儲け出来る」という状況を与えて投資家を繋ぎ止めようとするのです。
さて「受けるより与えるほうが幸いである」という黄金律があります。これも「報酬を得るよりも報酬への期待が幸福を感じやすい」と同じ事を言っているのです。すなわち人へ何かを与えることで、次の見返りを期待できます。贈答文化に根ざした法則と言えます。
ここで贈り物をする場合を考えてみましょう。いきなり数百万円の現金を誰かに与えても喜ばれません。むしろ相手は訝しがり侮辱されたとさえ思うでしょう。またそれほど高額ではなくても貸しを作る事を嫌がるでしょう。たとえ受け取ったとしても決して感謝などしないものです。
しかし会うたびに少額の贈り物、たとえば御菓子やちょっとした土産物を渡すのはどうでしょう。これなら相手が負担に思う事はありません。次に会うときには無意識のうちに報酬を期待し、それが自分への好印象へと繋がるかもしれません。
しかしこの場合であっても、別の人にはもっと良い贈り物を与えていたという事実が知られた場合には、却って憎しみを呼び起こす事になります。無愛想な顔で物を与える場合も同じです。これらは侮辱です。利得どころか損失であると脳は認識するのです。
多くの人は危険を冒して起業をしたり投資をしたりすることを嫌がります。起業や投資では一時的に大きな利益を得るかもしれません。しかし同時に全てを失い借金を背負うかもしれないのです。リスクを考えると尻込みしてしまうのです。
一方で定期的にお金が入ってくるサラリーマンや公務員には大した収入はありません。しかし損をする事は無いのです。給料日が近づけば「報酬への期待」が高まり、ちょっとした幸せを感じることも出来ます。
それゆえに投資でも大儲けを狙わずに、高配当株を買ったり、長期投資で比較的安定したリターンを狙う人がいるのは理にかなっています。
報酬は、お金のような直接的なものだけではありません。たとえば新しいものを学んだり、新しい技を身につけたりする事で人は喜びを感じます。なぜでしょうか?
何故なら、学習することで新しい環境に適用できるからです。すなわちより多くの餌を得られる事を示しているのです。近代文明が発達する以前に、弓矢や槍を上手く使えるようになったり馬を乗りこなせたりする事には、まさしくそういう意味がありました。現代においても人間の脳はそれほど変わっていません。新しい技を身に着けた事で、無意識に脳は報酬を期待しているのです。
「報酬への期待」は人生全体に応用することができます。
ヴィクトール・フランクルはオーストリアの精神科医・心理学者です。「人生をどう生きるべきなのか」という問いを深く考えた人です。ナチスによる強制収容所での体験が彼の思想に大きく影響しました。
彼は希望を持ち続けることで収容所から生還出来ました。「生き延びれば妻に会える」と心から信じそれを支えとしたのです。けれども別の収容所に送られた彼の妻が生きている可能性は極めて低いものでした。
全てを奪われる収容所では自由にコントロール出来るものは、自分の内面しかありません。反対に外在的なもの、すなわち「良い待遇を得られる」「収容所から脱出する」といった事を希望にするべきではないのです。一方で「もし生き伸びて還れば親しかった人に会える」という希望を抱くのはその人の自由なのです。内面の希望ならばどんなものでも可能です。たとえあり得ない希望であってもそれを持ち続ける事で収容所での生活に耐えられるのです。
これは収容所のような極限状態の話だけではありません。人生においても究極の理想を抱いたり、究極の芸術を心に描くのは全くの自由なのです。神を信じ宗教の世界に生きるのも自由です。フランクルにおける「妻に会える期待」の如くに全く可能性が無いものでも構わないわけです。
つまり具体的な希望より、抽象的なものの方がより自由度が高く満足も得られやすいのです。
誰かに強制された環境で幸せを感じることは出来ません。しかし自分で選んだ環境ならば幸せを感じることが出来ます。よく言われる「貧乏と質素」の違いも同じです。贅沢をしたいのに出来ないのなら不幸です。しかし自分で選択したものならば満足出来るのです。
人生には意味が必要です。それは自分にとっての「意味」です。「なぜ自分は生きているのか」「どうしてこれからも生き続けなければならないのか」という意味を自分で納得していなければ、生きて行けるわけがありません。人間は眼の前の餌を漁って生きている獣とは違うのです。
また自分の価値(意味)を「あのクルマを手にれること」「カネを儲けること」「あの人を手に入れること」「この人に喜ばれること」といった外在的なものと同一視してしまうのは愚かしい間違いです。人間は檻に入れられて誰かの為に芸をする動物とは違うのです。
たとえ現在が貧乏であっても将来の希望があれば、幸せを感じることが出来ます。高度成長期における山手線の混雑ぶりは今以上でした。当時の動画を見るとそれでも人々は時に笑顔を見せながら電車に押し込まれています。「現在の忙しさや混乱は悪いものでは無く、より良い未来へ繋がるものだ」と感じていたのです。
しかし現在の日本のように、将来の希望が無い状況はどうでしょうか。輪を掛けて忙しく混乱した状態だったとしたらどうでしょうか。そこに人々が幸せを感じることはとても難しいことなのです。