kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

二つの状態の間で意味を見出だすことにより、人々は生きている

人間の精神がもっとも停滞するのは平坦な状態が続くときです。良いものにせよ、悪いものにせよ変化が必要です。交通事故や病気で大切な人を亡くして、その啓蒙に意義を見いだす人もいます。一方で他人を貶めたりすることに懸命な人達もいます。決して快楽の絶対量が多ければ幸せというわけでもなく、苦しみに向き合う事や、他人を虐める事で生きている人も居るのです。

 

薄幸な人々は、自分より下と看做す人を虐めることで快感を得ています。例えば中島敦の「北方行」にこんな記述があります。子持ちの女と同棲している情夫は、楽しみにしていた蛤の鍋を畳にぶちまけてしまった女に対して激しく怒り、その子供の玩具まで次々に握り潰していきます。泣き喚く女と子供の姿を見ながら、その男は、”「もっと柔らかにしつこく、じわじわといじめてやる方法はないものか」と考えたり「一体弱い者いじめをするより、人間に快感を与えるものが他にあるだろうか」と思ったりした” のです。

 

このように、自分が不快な状態に囚われていると、他人を不幸にする事で相対的な快感を得ようとする場合があります。「現実はこんなに詰まらないのに、てめえは何でそんなくだらないもので喜んでいられるんだ」と「ちゃぶ台返し」の様な事をしたくなってしまうのです。そうした人にとって、弱者はからかいや虐め、暴力の対象であり、長じては支配し奴隷扱いする対象です。混雑した電車の中では、揺れに合わせて隣人に肘打ちを食らわしたり、偶然を装い物で殴る光景が見られます。また彼らは「俺の知らない所で底辺層が儲けているのは許せない、それなら皆で生活水準を下げた方がまだマシだ」とさえ思うのです。

 

こういった人々にとって、子供というのは愛玩物であり、奴隷であり、将来の保険であり、自分の存在理由のよりどころでもあります。しかし実際には「可愛くて親の言うことを聞き、賢く親を喜ばせ、将来は面倒をしっかり見てくれる、そういう子供を望んで居たのに、目の前にいる、この醜くて頭の鈍いガキは何だ!」と感じて、思わず手を出してしまいます。それでも「私がこの児に辛く当たるのは、この児の将来を思ってこそなのだ」と自分に言い聞かせるのです。

子供の積み木があと少しで完成するという時に、親が、最後のピースを乗せて達成感を奪ったり、あるいはその積み木を打ち壊すことで、その子供は何事にもやりがいを感じられない大人へと育っていきます。学校では相互監視のもと、自由に糞もできない環境に置かれ、課外活動や交流に追われて、睡眠時間もろくにとれません。睡眠によって気分はリセットされ、心地よいまどろみから目覚め、活力に満ちた希望が湧いてくる、こういった朝のポジティブなエネルギーの差が生きる力となるのですが、こうした人々は、まるでそれを必要としていないかのようです。

 

「社会人」になっても、短い昼休みの中で、長い列に並び、テラテラ光る白米がこんもりと盛られているが、申し訳程度の副菜しか入っていない上げ底の弁当を買って来て掻き込むように食べます。それでは全然栄養が足りないので、今度は駄菓子を買ってボリボリむさぼり食います。こうして生活水準の低い人々が再生産され、新たな不幸を周りに広めていくのです。

 

さて人の内面に目を向けると、外界や体内の刺激は脳に送られ、それらの膨大な信号は適切に整理されて、基本的な「気分」が決定されます。そして最も重要な情報だけが意識に上るようになっています。体に不調があると「何となく気分が悪い」と感じ、その理由が判じ得ないと、外部の要因のどれかを不快の原因と思い込んでしまい、外の人々に対して理不尽な怒りを放出したりします。こうした場合、真の原因を解決しないと、例え怒り散らしたり思考停止によって過去や未来を考えないようにしたとしても、刻一刻と現れる、今この瞬間の不快な気分からは、決して逃れようがありません。

 

これらの刺激は、それ自体で「快/不快」と無条件に分類されるものではありません。複数の刺激をまとめて何かしらの「意味付け」をする必要があるのです。例え不快な「痛み」であっても、何か意味がなければなりません。

意味があれば、それは自分にとって耐えられるものになります。逆に、快楽に囲まれていても、それに意味を感じられなければ、結局は不快な事象や思い出となってしまいます。

 

ここで言っている「意味付け」には2つあって、ひとつは理性の解釈によるもの、もうひとつは情感によるものです。

例えば「気持ちを切り替える」場合には、理性の助けにより無意識を支配している気分や情感を変えていきます。「自分はずっと同じ人間で在り続けている」と多くの人は信じていますが、精神だけでなく、脳も物理的に短時間で驚くほどに変わっているのです。

人というのは時間を経過しても言動に矛盾の無い統一的な主体であり続けるべきだと一般には思われていますが、それは理想です。もし誰かがそうであったとしても、自分が好む信念や人に対して、その対象の別な面を次々と好きになっていく事により飽きないようにしているのです。解釈と情感を変えていくことで、同じ対象であっても、人はそれに関わり続けて行くことが出来るのです。

 

この世界には「善と悪」「光と闇」「覚醒と睡眠」「昼と夜」「真理と虚偽」などの二つの極が常にあり、自分に影響を与えるそれら二つの間にある任意のポイントの状態を、自分にとって「ちょうど良いもの」と意味付けることで、人は生きていくことができます。

言い換えると、膨大な刺激を、まとまった意味のあるものとして理性が捉えたり、無意識がひとつの情感として捉えることで、初めて人生という時間の流れが、「何か価値のあるものである」かのように人は認識することが出来るわけです。

 

実はいっそのこと、理性、自我を捨ててしまうというのも、ひとつの生き方です。そうすれば楽に生きられます。なぜなら人間は言語と理性を得ることによって、過去や未来に苦しめられるようになったからです。しかし周りは、平凡でありながらも気まぐれで自分勝手な、そんなあなたを決して許しはしないでしょう。とは言え、過去と未来からは自由になります。その時々の情感に身を任せ、今だけを楽しめるようになるのです。

ところが上にも書いたように、今現在が苦痛であり、それがずっと続くという人もいます。そういった人々は、現在からひたすら逃げるかのように、無意味な行動をとり続けます。彼らはタランテラ(tarantella)の逸話のように踊り狂って死んでいくのです…、「悲愴」です(笑)