kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

悪魔が象徴しているものは何か

聖書には「悪魔」がたびたび登場します。聖書に書かれている「悪魔」とはいったい何の象徴だったのでしょうか。単に「悪いもの」「恐ろしいもの」を示していたのでしょうか。

 

聖書の「悪魔」は極めて特殊なものです。妖怪や幽霊、鬼の類は世界中の神話や伝承で見出すことができます。しかし「悪魔」はそれらとは異なるように見えます。

たとえば日本における妖怪は人間に深刻な害をもたらすというよりは子供のように無邪気な悪戯を行って人間を驚かすというものです。たとえば「座敷わらし」や「からかさ小僧」「ろくろ首」といったものです。「天狗」は少し違います。これは人に害をなすのではなくて人知を超えた怪しい妖術を扱う存在です。

 

日本の昔話によく出てくる「鬼」は異邦人を象徴しています。児童文学の「泣いた赤鬼」はこれを良く表しています。優しい心を持った「赤鬼」は村人から差別を受けて孤独に暮らしています。その赤鬼が「なんとか人々と仲良くできないか」と画策する物語です。外見が日本人とは違うだけで「鬼」と呼ばれ共同体から排斥されてしまうのです。

「あいつは鬼だ」と人を評することがあります。悪行がその人の性格に深く起因する場合に使われます。矯正不可能であり近づいてはいけない人間です。

 

日本の幽霊話にもある傾向があります。代表的な「皿屋敷」や「四谷怪談」は男とは異なる女性の深い怨念を誇張的に描いた物語になっています。

 

上で挙げた日本の「妖怪」「鬼」「幽霊」はいずれも普通の人々とは異なる存在を語り継いで恐れる物語です。「こういったものとは関わり合いになるな」という昔の人の警告なのです。

 

これに対して「悪魔」はどう違うのでしょうか。

聖書に登場する悪魔はもともとは最も優れた神の御使いでした。霊的に美しく高い理性を備えた存在です。しかし自分も神になろうとして反逆者となったのです。

「悪魔」が象徴しているものは、上に挙げたような妖怪や鬼とは違い我々そのものなのです。もっとも完成された人間の姿を「神」と平行して「悪魔」は表しているのです。

 

聖書において「悪魔」は言葉巧みに人間を誘惑します。彼が語る言葉は実に合理的です。魅惑的でもあります。新約聖書ではイエスに対しても誘惑を試みています。あくまでも穏やかで理性的に説得を試みます。人間に対して激しく怒ったり災いをもたらしたりするのはむしろ神の方です。

 

原始的な人間を律するのは簡単です。厳しい律法や罰を与えれば良いのです。「これをなすなかれ」という言葉とともに「もしそれを破ればどうなるか」という判例を示せば良いのです。旧約聖書は戒律とともにそのような恐ろしい判例について延々と語っています。

しかしそれだけでは足りない事に昔の人々は気付いたのです。「律法や罰だけでは簡単に動かない理性的な人々をどう扱うか」という問題があったのです。賢い人間が考えれば、容易に律法のおかしな点を指摘することができます。このような人々が呈する疑問に対してきちんと答える必要がありました。つまり「悪魔の問いに対してどのように巧みに答えるか」という問題を解決するために理論武装を聖書に加えていかなければならなかったのです。

聖書の記述の多くは「問い」と「答え」です。自問自答を繰り返してより完成されたものを目指しているのです。

 

しかしながら理性を持って疑問に答え反論するだけでも足りなかったのです。理屈だけでは人は動きません。イエスが聖書の教理に付け加えたのが「愛」です。人間中心的な考え方です。律法のために人間が存在するのではなく、人間のために律法が存在するのです。人間への愛がなければ全ては無になるという考えです。

 

ここにおいて悪魔の姿がより明確になってきました。彼は高度な知性を備えた存在です。感情をあらわにして怒る事もありません。けれどもそこが拙いのです。彼には愛が欠けています。非常に優れた理性的存在ですが感情がありません。人々を言葉巧みに騙して自分の思い通りに動く様を見て満足していますが、それだけです。

エスでさえ怒った事があります。神殿で商売をしていた人々に対して鞭を振るったり両替台をひっくり返したりして彼らを追い出したのです。

 

人間は進化の過程で大脳皮質を発達させ大きな前頭葉まで手に入れました。ですがそれによって人間が余りにも理性的に過ぎる存在となる可能性が出てきたのです。人間の理性は、大脳辺縁系や動物的な本能ともうまく渡り合っていかなければなりません。聖書には「人はパンのみにて生きるにあらず」と書かれています。しかし当然ながらパンも必要です。「パン」と「言葉」の両方をうまくバランスさせなければならないのです。

 

こうして見ると聖書は、人間の長い歴史を通して蒸留された大切な知恵を伝えてくれる書物といえないでしょうか。シンプルですが実に重要な教えです。今まで聖書の記述が生き残ってきたのには理由があります。

 

我々は容易に「悪魔」になってしまいます。いくら細かい規則を守ったとて肝心な所を違えてしまっては全てが無駄になります。そうならない為に知恵が必要なのです。

マンハッタンの金融機関で働く人々は人間を数字としてしか見ていません。たとえば保険会社は人々への支払いをあの手この手で拒否しようとします。その向こうに居る人々の姿を想像しようとさえしないのです。それによって結局は恨みを買い復讐される事になります。

金融機関のトップであっても銃撃により命を落とす事があるのです。命乞いをしてお通じを漏らしながらの絶命です。鍛えた肉体でも銃弾は防げません。彼の人生は失敗です。少なくとも彼がやるべきことは体を鍛えたりボディーガードを雇う事ではなく、人の恨みを買わない事だったのです。それが知恵というものです。お金持ちが寄付をするのにはそういった理由もあるのです。旧約聖書には10分の1の寄付を促す記述があります。知恵を欠いた愚か者には惨めな最期が待っています。

 

日本でも官僚と政治家が横暴の限りを尽くしています。国富を収奪し日本を貧しくしています。彼らは日本の衰退を知った上で逃げ切りを図っているかのようです。「悪い木は悪い実を結ぶ」とは良くいったものです。彼らを30年以上も放置していたツケを払う時がやって来ました。もしもこれらが日本を躓かせるのなら、えぐり出して捨て去らなければなりません。日本全体が崩壊するよりはましなのです。毒麦は刈り取らなければなりません。

 

日本人は見た目に騙されやすい人々です。権威ある人を崇拝してひれ伏してしまいます。「偶像(アイドル)」をいつも拝んでいます。それに加えて「悪いものは無かったことにしよう」とする傾向があります。そうではなくて悪いものをはっきり見つめる必要があるのです。「悪」が自分達の中に存在することを認めなければなりません。表面だけを綺麗に取り繕っても意味がないのです。

 

「悪」を想定して自問自答しなければいけないのです。そうした上で「人間愛」が必要なのです。どちらが欠けてもいけません。

「悪を」想定する「理性」もなければ「愛」もないでは絶望的です。日本にあるのは厳格な「掟」「律法」だけです。まずはその状況を認識する事から始めるべきです。

 

聖書においては厳しい法の守り手である「神」のみならず、賢さを表す「悪魔」も非常に重要な役割を担っていました。イエスが象徴する「愛」も重要です。これらはそれぞれ人間のある側面を表しており、我々人間は生きていくうえで、それらのバランスをとっていく必要があるのです。

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