kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

日本人の行動原理と導き方

日本人の行動を規定する原理はなんでしょうか。彼らは眼の前にある欲求を満たすことのみを考えています。世界や社会どころか自分の人生についても考えることがありません。その日暮らしの発想しかできない人々です。彼らを導く何らかの方法が必要です。

 

人生には、自身の欲求を満たす以外に、何らかの意義が必要です。自分の成長や、他の人々への貢献といったものです。

人間は獣と違って、過去や未来を想像してその間を自由に行き来することができます。時間軸に沿って今までの行動を振り返り、そこに一貫して存在する物語を見出します。そのストーリーに従ってこれからも一貫しているであろう自分の未来にも思いを馳せるのです。自分が織りなすその物語に、意義と成長を見出すのです。

 

ところが日本人は、過去を総括して反省したり、何かを学んだりといったことが苦手なのです。毎年の記念日には何らかの式典が開かれますが、そこから学ぼうとしません。被害者面で想いを寄せるだけです。また先を読んで今後の計画を立てることもできません。

彼らには時間軸が欠如してます。その場しのぎの対策を行い、直ぐバレるようなウソをつき物事を誤魔化します。というのも、彼らには空間操作能力はかろうじてありますが、時間軸に沿って過去と未来を考えたり、言語で抽象的な概念を扱ったりする能力が欠けているのです。

 

日本人は人生の意義に考えが及ばず、目先の損得に左右されます。短絡的であり、なおかつ暴力的です。きちんとしたプロセスを踏んで未来を作り出すことができないわけです。我々日本人は、多かれ少なかれ首狩り土人の血を引いています。我を通す事にこだわり、思い通りの結果が出ないと、野蛮な力技で物事を解決しようとするのです。

 

ベネディクトの「菊と刀」という言葉は言い得て妙です。日本人の本質を表しています。三島由紀夫が言う「文学と武士道」「太陽と鉄」「精神と肉体」という言葉も、似たような概念を指しています。

日本人は放っておくと「日本刀」「武士道」「鉄」「肉体」「欲望」だけに頼る獣へと容易に堕してしまうのです。そこに美的で道徳的な意味合いを感じてしまうのが日本人の習性なのです。日本人は常に攻撃する対象を必要としています。いくら虐めても許される、子供や女性、障がい者やマイノリティーのような弱者をです。外国人に対しては遠吠えを繰り返します。ところが反撃して来ると慌てて逃げ出します。

 

国際政治においても、日本人は平和外交によって物事を解決することができません。諜報活動や情報戦も不得手です。統合的に頭を使うのが苦手なのです。それでいて自分達の欠陥を棚に上げ、理想や理念を嘲笑うのです。いきおい、カネをばらまき軍事力を使って国を守るという発想にならざるを得ません。

 

日本人は議会制民主主義を理解することができませんでした。人々がちまたで争い合う代わりに、代表者が議会で争い、お互いに牽制をしながら政策を決めていくという仕組みです。与党と野党は同じような力を持ち、政権交代を繰り返します。これは決して理想の姿ではなく妥協の産物です。それでも封建時代と比べればマシなシステムなのです。しかるに日本人の理想は、戦国武将が支配するような軍事独裁政権です。そうして庶民が、自発的に反対する人間を叩き潰すというシステムです。

このような日本人は、家畜と同じように「上か下か」という感覚だけは備えています。強い者には無条件で付き従い、弱者を虐げるのです。

 

こんな日本人を導く方法はあるのでしょうか。あります。三島由紀夫は、放っておくと直ぐに堕落してしまう日本人の性質を見抜いていました。彼らを精神的に導く存在が必要です。つまり文化的象徴としての天皇がそれにあたると彼は考えたのです。

日本人は抽象的に物事を考えるのが苦手なので、目に見える偶像が必要です。要するに無条件に偉い人間を彼らに提供するのです。庶民も政治家も資本家も、等しく頭を下げなければいけない存在です。

その代わりに権力を持ちません。富もありません。明確な意見も持ちません。賢くもありません。象徴としてただ座っていれば良い存在です。それを利用して日本人を内面から拘束するのです。今も昔も、錦の御旗が日本では正義となるのです。

 

日本に文化があったかどうかというのは、なかなかに難しい問題です。現在残っている歴史的建築物のほとんどは帰化人の指導や技術力によって作られたものだからです。とはいえ、礼儀作法や儀式といった習性やそこに見られる精神が日本の文化だと言ってしまうことはできるでしょう。つまりどうとでも言えるのです。肝心なことはそれによって日本人を縛れるという点です。日本人には彼らを束ねる土着の酋長が必要なのです。

 

日本人は、このような偶像によって導くことができます。明治時代の元勲の過ちは、天皇統帥権を与えてしまったことです。

中身のない偶像の存在によって権力は分散されます。富も分配されます。みんなで貧しくなろうという社会です。上から下まで質素な食事や生活が奨励されます。物事を深く考える必要もなくなります。人生に意義はなく日々の快楽の海を漂います。江戸時代のように小さな政府が実現し、普請や参勤交代のような定期的に消費を強制するシステムが作られます。多分、これが日本人にとって一番合った社会システムなのでしょう。

 

太平洋戦争前夜、日本はかなりの格差社会でした。大財閥が存在する一方で、信じられないほどに貧しい人々がいました。どんぐりを食って飢えを凌いでいたのです。娘を女郎屋へと売りに出すようなことも行われていました。戦場では「息子を早く前線で死なせろ、遺族年金が貰えないではないか」と、息子を送り出した田舎の家長から上官を叱責する手紙が届くこともあったそうです。

振り返ると、庶民に至るまで日本人がまともに食うことが出来た時代は、何と短い間であったことでしょう。今では都会のスラムで人々がゴミのように暮らしています。ネットカフェやファミレスで夜を明かし、日雇いの仕事や体を売ることで収入を得ています。食事は食べないか、盗んだり生ゴミを漁ったりして済ませます。こうした状況が臨界に達すると日本人は暴発します。

 

憂国の仮面さえ被っていれば、何であろうと許されると考えるのが日本人です。三島由紀夫は「『道義的革命』の論理」のなかで、ニ・ニ六事件の首謀者の言葉を好意的に紹介しています。いわく「狂となり、痴となるほどに日本国を愛せよ」「戦場は金殿玉楼(きんでんぎょくろう)の立ち並ぶ特権者の住宅地なり」「権力者を討滅決壊せよ。これ忠義の最高道なり」といったものです。もっとも、このクーデターは天皇を激怒させる結果に終わったのですが。

敵は大御心(おおみごころ)に逆らう奸賊であり夷狄。彼らを成敗し、象徴を押し戴くことで、古来のつましい日本が復活すると、それでも日本人は考えてしまうのです。

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