人間にとって時間とは、どういう意味を持つものでしょうか。我々は時間というものを漠然とは感じています。絶対的なものではないにしても、相対的な時間はあるだろうと思っています。ところが実のところ、時間軸そのものがあるのかどうかさえ不確かなのです。
時間をどんどん細かく分けていくと、そこではもはや因果律が存在しません。素粒子や光子が次の時間において何処に移動するのかは、確率的にしか分からないのです。
Aという位置にあって、かくかくしかじかの状態にあったから、次はBという位置に移るだろうとは言えないのです。これらの空間を形作っている「量子」は、瞬間的に移動します。この量子の動くタイミングそのものが、時間の最小単位といえます。
そもそも時計で測れる時間でさえ、絶対的なものではありません。より地球の中心に近い平地では、山岳地帯と比べてゆっくりと時間が過ぎます。飛行機で移動している人にとっては、地上でじっとしている人と比べて、時間もゆっくりとなります。質量やエネルギーによって時間は影響を受けるのです。
「現在」というのも人によってズレがあります。Aさんの目に写ったBさんの動く姿は、少し前の過去の映像に過ぎません。話をしても、耳に届いた声は少し過去のものです。
時間軸は伸び縮みするだけでなく、現在さえも、人によってズレがあり、共有されてはいないのです。各人それぞれが自分の時間軸と現在を生きているに過ぎません。
なぜ、時間という、ひとつの方向へ矢のように進むものがあるように見えるのでしょうか。それはこの世界が、熱いものから冷めた状態へ、秩序だったものから乱雑なものへと進む物理法則に支配されているからです。エントロピー増大の法則と呼ばれているものです。
ボールを転がすとやがて止まります。運動エネルギーが、摩擦による熱エネルギーに変わったからです。その熱は周囲の冷めた空気へと移動します。
薪を燃やすと、最後にススだけが残ります。薪という秩序だった存在が崩壊して、熱となったからです。
普通の人は、ボールがリビングに転がっているのを見たら、誰かがボールを投げたのだろうと推測します。ススを見つけたら、何かが燃えたのだろうと考えます。その逆はありません。ボールがひとりでに動いたり、ススから薪が現れることは無いのです。
人間は経験したものをパターン化して整理し、因果律を頼りにして未来を予測する生き物です。そのように進化してきました。物理法則が支配する世界では、その方が生き延びやすかったからです。
人も瞬間に生きる存在です。しかし記憶があります。そしてそれを基にして未来を想像できます。こうして人間の中に過去から未来という、漠然とした「時間」という概念が生まれたのです。
なぜ時間が存在するように見えるのか。それは、たまたまこの世界に、秩序だった状態から乱雑な状態へ、熱い状態から冷めた状態へ変わるという法則があったからに過ぎません。そして人間は複雑な脳を持つように進化したために、この法則を頼りに時間を考察するようになったのです。
モノは刻々と姿を変えていきます。時間軸に沿って、モノが配置されているのではありません。変幻流転する「出来事」の連続を、時間として認識しているだけなのです。
時間芸術として音楽があります。音楽そのものはどこかに存在しているわけではありません、過去の音の連なりに、まさに現在、自分が聴いている音を組み込んで、音楽を認識しているのです。次はこうなるだろうと無意識のうちに期待し、その通りになると安心したり、あるいは意外に感じたりして楽しんでいるのです。
自我にしても、時間を抜きにしては考えられません。今まで自分はこうして来たという記憶があり、未来はこうしようという計画があります。過去と未来があるからこそ、いま何かを感じて考える自分があります。
量子レベルでは、過去も現在も未来もありません。量子は確率的に場所を移動するだけです。けれどもマクロな視点で見ると、エントロピー増大の法則があり、過去の「出来事」の痕跡が残るのです。薪を燃やした後のススのようにです。人間は、それを利用するように進化してきたのです。
目の前に貴金属があったとしても、それは確固たる存在ではありません。量子は常に場所を移動しています。現れては消えます。ミクロな視点では霞のような存在です。人間の視点からすれば、姿を変えない確かな存在に見えるだけです。
やがてこの宇宙が冷え切って、秩序だったものが全て消えれば、人間そのものも存在できなくなります。とはいえそれは遠い未来のことです。
もしかすると、この宇宙とは別に、エントロピーが別の方向に向かうような物理法則が支配している世界があるのかもしれません。全体としては帳尻が合います。もっとも我々からは観察ができませんが。
時間や存在があやふやなものだからといって、人間の存在や生き方が無意味になるわけではありません。
音楽を聴いても、その実体がどこかにある訳ではありません。正義や公正、理想の世界を思い浮かべても、それがどこかに存在するわけではありません。そうであっても、心の中にそれを思い浮かべることが出来るという事が、人間の素晴らしさに他ならないのです。
モノやカネ、時間があってもそれだけでは何の価値もありません。人としてどう生きるかが大切なのです。何を行ったかという「出来事」が大事なのです。「あの人はいっぱい資産を持っている」「暇な時間をたくさん持っている」と言って、人は他人を称賛するのではありません。
理想を実現するために行動した者だけが、人々の記憶に残るのです。そのために死ぬことになったとしてもです。誰かの役に立ち、思い出される価値がある人間になること、それこそが理想ではないでしょうか。
ある人の髪の毛が白いとか、顔にしわが寄っているからといって、その人が長く生きてきたと認める理由にはならない。その人は、長く生きていたのではない。たんに長く存在していただけなのだ。
セネカ『人生の短さについて』
不死への鍵は、憶えておくに値する人生を生きることである。