kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

「縮み志向の日本人」

日本人は他人に対して容易に心を開きません。それどころか、他人が余計な行動をしないかを監視しています。互いに牽制しあっているのです。人間同士の関係は薄くなり、経済活動も縮小していきます。

 

社会や経済は、人々がコミュニケーションすることによって発展していきます。コミュニケーションが滞った社会は滅びます。

コミュニケーションとは人と人との間で発生する交換です。それには次のものがあります。言葉を交わすこと。モノやカネを交換すること。婚姻という親族の交換。この3つです。

人から何かをして貰ったら、お返しをしたくなるのが人間です。他人に与えるのを嫌がる。貧乏人に施しをするのを嫌がる。福祉などとんでもない。そう考えていたら、その社会は終わりです。

 

今の日本を見ると、他人との交わりを出来るだけ断って、消費も控えているように見えます。結婚する人も減っています。これだけを見ると、日本は滅びゆく社会ということになります。

 

日本はもともと、よそ者との接触を避ける社会です。人々は、「ムラ」や小さなコミュニティ内だけを見ています。会話の内容が分からないないように、仲間内だけで通じる隠語や略語を使い、「ソト」の人間を排斥します。

 

明治政府は廃藩置県を実施し、天皇を頂点とするシステムを整備しました。それにより、人々を強制的にひとつの目標へと集結させることができたのです。それを実現する為に標準語も作られました。身分制度も表面上は廃止されました。政府主導によってインフラが整備され、さまざまな工場も作られていきました。徴兵制度や、工場の仕事を求める人々によって交流が増えていったのです。

日本人は強制されないと、バラバラとなり、内へと向かう傾向を持っています。日本人は、個人主義と呼ばれる欧米人より、他人を「信頼」していないことがわかっています。いわば、日本人は自分のことしか考えない身勝手な「個人主義」なのです。

 

人々の自然な交流が無い代わりに、庶民からカネを強制的にむしり取るシステムが出来上がっています。上の者が富を得る一方で、国民は最低の生活を強いられるのです。人間をダシにして上の人間がうまい汁を吸う。それが日本というシステムです。

 

日本人は、匿名掲示板やSNSを通じて、お互いを攻撃しあっています。退職金は確定拠出年金となりました。公的年金も貰えるかどうか分かりません。賃金は増えないどころか、減っています。物価は上がっていきます。それに加えて重税です。

彼らには未来がありません。消費を減らしカネを溜めなければなりません。気が狂って投機に手を出します。寄生するパートナーも居ません。充分な教育費を用意できなければ、子供は不良債権となります。

子供に面倒を見てもらおうという甘い見込みは成り立たなくなりました。福祉もあてになりません。多くの人々は孤独のうちに亡くなり、腐ってドロドロになった状態で発見されるのです。

 

富は無から生まれるのではありません。人の心にある希望から生まれるのです。賃金を得るために、労働者は身を粉にして働きます。提供した労働力から賃金を引いたものが、経営者の富となります。企業が作った製品は、労働者が買うことによって経済が回っていきます。一方的な搾取だけでは経済が収縮してしまいます。

 

ところが日本では、経営者も役人もその意識に欠けています。彼らはムラ社会の構成員のように行動しています。「日本人なんか使い潰せばいいじゃん」「連中からむしり取ったカネで俺たち楽しもうぜ」「自分たちが死んだ後のことなんてどうでもいいや」と考えているのです。

実際に彼らは外国のために動いているのですから、もはや日本人と呼ぶことさえ躊躇(ためら)われます。日本というのは、彼らにとって「狩り場」に過ぎないのです。

 

しかも彼らは、庶民に負けず劣らず無能です。プロフェッショナルではなく、アマチュアです。彼ら自身が「素人」と自称しているのだから間違いありません。失敗の責任を負うつもりはありません。それなのに何故、上に君臨しているのでしょうか。要するに彼らは「自分たちは特権階級だから、搾取する権利がある」と言っているのです。

 

彼らの当事者意識の無さには呆れます。まるで他人事です。もっとも、同じ部署に数年しか居ないのですから責任感が希薄になって当たり前です。無難に過ごせば定年まで勤められ、退職金も満額もらうことができます。こんな人達に日本の根幹を握られているのです。

 

日本人の敵は日本人なのです。いや「日本人と自称している連中」と言うべきでしょう。

日本全体がカルト集団に他ならず、しかもカネを外国に貢(みつ)いでいたというのが明らかになりました。我々は食物連鎖の最底辺にいるのです。貧しさはやがて国全体に広がっていきます。けれども上の連中は「いざとなれば外国に高跳びすればいい」と考えています。こんな人々を「日本人」と呼ぶことはできません。

 

この流れを転換させることは出来るでしょうか。方法はあります。まずは「日本人と称しながら実はそうではない者たち」を、政治の舞台から追い出す必要があります。公○がそのリストを持っています。そして人々の心に、未来についての明るい希望を吹き込まなければなりません。プロパガンダ、洗脳によってではありません。事実によってです。具体的には政策です。そして教育です。ここにカネをかけねばなりません。

 

本文の冒頭で、コミュニケーションについて書きました。その中でも言葉が大事です。日本語を整備し、まともなコミュニケーションができる場を提供するのです。これも教育によってなされなければなりません。

 

これを実行するには、最低でも30年後の未来を見据えられる人材が必要です。しかも「畜群」に左右されない信念を持つ人です。果たして、今の日本にそういった人がいるのでしょうか? 

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