kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

言葉を扱えない日本人 -自我と意志が弱く、分析と予測が出来ない人々-

日本人は言葉をうまく扱えません。言葉と、強い自我や意志、そして過去や未来を考える能力は、密接に関係しています。

 

人間の脳は言語脳(左脳)と右脳に分かれます。言語脳は、ひとつの事柄に集中するのに長けています。論理的なシングルタスクの遂行が得意です。一方で右脳は、マルチタスクが可能で、多様な事を同時に行うことが出来ます。

脳梁を切断され、左右の脳の連絡を絶たれた分離脳の患者は、あたかも2つの人格が存在しているかのように行動します。

これは左脳と右脳に別々の主体が存在しているというよりも、脳の全体にわたって、自立した行動ができる主体が複数存在していることを示しています。言語脳にある主体は、その中で最も大きなもので、多くの人はこれこそが「自分自身だ」と感じているのです。

 

言語脳は、言葉や数字などの表象を使って、物事を時系列に整理をし、ひとつの一貫したストーリーを作り上げます。言葉で「わたしは昨日まで、こんな事をしていた」「私は、明日からはこんな事をしたい」と考えます。これが自我です。

言語脳の発達により、人間は、環境からの刺激を受けて反応するだけの存在から、抜け出すことができました。外界から少し引いたポジションで自我は、自分自身を俯瞰し、刺激を受けて行動する「私」を観察できるようになったのです。

しかも、今現在だけでなく、遠い過去を振り返り、そこから学ぶことができるようになりました。未来を予測し、行動の方針を予め決定することもできます。さらに自分だけでなく、仲間と、知識や知恵を共有することができるようになったのです。

文字が発明されたおかげで、書物を通し、遠い昔に死んだ人々や、自分が死んだ後の人たちとコミュニケーションをとることさえも出来るのです。

 

ここでもう一度、脳の中に戻って考えてみます。自我を持った人間は自由意志を持っているように見えます。ところが人間は、まず行動をしてから、「それを意図した自分」を感じるという順序になっているのです。コンマ何秒かの遅れがあります。ミクロなレベルで見ると自由意志は幻に過ぎません。

脳の中の「自分」は、単に後付けで自分の行動を解釈しているに過ぎないのです。ただし「これからは、自分はこうしよう」と考えることで、未来における自分の行動の蓋然性を変えることは出来るのです。 

環境の刺激に対して、いちいち「自我」が考え判断をしていたら間に合いません。「どう歩くか」「どう笑うか」「どう相槌を打つか」を考えていたのでは、負荷が高すぎます。しかもその「自我」とやらは案外に弱く、眠りに入ると不確かなものになってしまいます。麻酔が効くと、自我は失われてしまいます。

 

ここで人間の感覚に焦点をあててみましょう。例えば、野球のボールが自分に当たった時の感覚を思い出してください。視覚、聴覚、痛覚を引き起こす刺激は、それぞれバラバラなタイミングで脳に届きます。ところが脳はそれらを同時に起きた事柄だと認識するのです。

クロノスタシスという錯覚があります。誰でも試すことができます。(a)秒針のあるクオーツ時計をしばらく見てください。(b)そこから素早く視線を別のところに移し、(c)それからまた時計を注視するのです。すると、秒針の動きが妙に間延びして感じられるはずです。

これは素早い目の動きによって画像を捉えきれずに欠落してしまった部分を埋めるために、(b)の部分を、(c)の画像を用いて過去にさかのぼって埋めているのです。「過去に遡ってという箇所は妙だ」と思うかもしれません。

しかし意識は外界をリアルタイムに認識してはいません。コンマ何秒かの遅れがあるのです。意識にとって、(b)の部分は「過去」ではなく「今」なのです。

人間の知覚は結構いい加減で、素早い目の動きによって画像がところどころが欠落してしまうのです。でも我々はあちこち欠落していたり、ブレブレで不安定な動画を見ているようには感じません。人間の脳は視覚を都合の良いように補正しているのです。

 

要するに、環境から受けた刺激を都合よく統合し、それに対して瞬時に反応した自分の行動の理由を解釈したうえで、これからの行動方針を決める、それが「自我」なのです。

おおまかに言うと、外界からの刺激の「受け手である自分」、「行動する自分」、それらを「俯瞰して解釈し計画を立てる自分」の3つがいるという訳です。

 

日本人はこの「俯瞰して解釈し計画を立てる自分」が弱いのです。言語能力が弱ければ、自我を感じられず、強い意志を持てず、過去を振り返って分析し、未来を予測して計画する事も出来ないのですから当然です。

 

言語脳は、一貫したストーリーを作り上げようとする傾向があります。それが成熟した人間の考えや行動に一貫性が見られる理由です。そのほうが環境に適応できるのです。

過去の現象を抽象化し仮説を立てる。それをもとに行動の方針を立てる。仮説が否定されたら、矛盾を解消する、さらに高次の仮説を作り行動する。普通の人間でも、科学者と同じようなことをしているのです。

 

しかるに日本人は、環境の変化に対して、場当たり的な対応をとります。やっているフリ、努力している姿さえ見せていれば良いと思っています。彼らは失敗しても、同じ行動を4~5回繰り返します。結果がどうなろうが委細構わずです。そうしてからようやく別の手を考えるのです。

結果を伴わない雑な仕事を繰り返しながらも、ここまで努力したのだから、皆から感謝されてしかるべきだと思っています。

過去を分析できません。未来も予測しません。周りの群れを眺めて、それと同じような行動をとるだけです。自分が何故そのような行動をとったのか、その理由さえ理解していません。これではまるで獣と同じです。

 

人間は言語脳の発達によって、善悪を知るようになりました。細かい基準は変わっていきますが、「殺すなかれ」「盗むなかれ」「偽証するな」「姦淫をするな」などの基本的な考えは人類の中で一貫しています。

ところが日本では「良いも悪いもない」「善悪は相対的」「絶対はない」「異なる善悪の基準を認め合うのがダイバーシティだ」という考えが一般的です。

日本ではそのように考え行動した方が、社会に適応できるため、そんな人間ばかりが生き残り、他は淘汰されてしまったのです。

 

「弱者やガキどもの命なんて、どーでもいいじゃん」「俺のカネは俺のもの、お前のカネも俺のもの」「自分の為にウソを付くのは当たり前」「立場を利用して弱い女をやっちまえ」「バレなきゃいいんだ」などと日本人は考えます。

日本人は、他の人類とは異なる価値基準で動いています。いや、そもそも基準など無いのです。人間未満です。

 

彼らを助けるために、私たちは何ができるでしょうか? 教育だけが彼らを変えることができます。特に国語教育です。日本語のままでも良いのです。多くの日本人にとって、英語などを勉強している時間は無いと思います。

ただし漢字の書き取りや、小説を道徳の教科書のように読ませること、作者の意図ではなく出題者の意図を読み取るような試験などは止めたほうがいいでしょう。

また最近では、自分で勉強をするにしても、SEOを施した、カネに繋がるものが良い文章だと勘違いして、その手の本ばかり読んでいる人もいます。本は悪くありません。そればかりというのが良くないのです。

 

早いうちから良質のエッセイを読ませ、長いリポートやエッセイを書く訓練をするべきです。今のような感想文だか日記だか分からないような作文を書かせるのは、まったく意味がありません。コピペで文を作ってくるような連中は厳しく罰するべきです。

ただし、日本には良質なエッセイは少ないのです。よく知られた人が軽く書き流したものがエッセイだと思われています。好む読者が少なく、評価もされないというのが理由のひとつでしょう。翻訳も含めて幅広い分野の本を読むのが良いのです。

 

とはいえ、小説がよく読まれていた頃でさえ、多くの日本人にとっては、単に自分とは異なる世界の雰囲気に浸りたいという動機からに過ぎませんでした。それならば、漫画やアニメ、TVやネットの動画を受動的に視聴するだけで充分な訳です。

 

自分が考えたストーリーではなく、群れに流され、その場の限りのエモーションによって動いてしまう、それが日本人の性(さが)であり、限界なのかもしれません。


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マインド・タイム: 脳と意識の時間 (岩波現代文庫 学術 429)

脳はいいかげんにできている その場しのぎの進化が生んだ人間らしさ (河出文庫)

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