日本人は変わりゆく環境に適応できません。このままでは滅ぶしかないでしょう。生物として極めて当たり前のことができていないのです。なぜ日本人はこうなったのでしょうか。
人間は、外界をシミュレートできる、脳という面白い器官を持っています。世界の小さな模型が頭の中にあり、それを自在に変えられるのです。もし、有機体とは異なるような知的生命体が人間を観察したとしたら、その点を興味深く思うことでしょう。
原始的な生物はエサを見つけたら、その方向に進むといった単純な行動しかできません。しかし人間の脳は、現在だけでなく、過去と未来を持つことができます。過去から法則を学び、仮説を立てシミュレーションを繰り返し、それを修正しながら未来を予想し、上手に立ち回ることができます。
人間は自然を見て「美しい」と感じます。当たり前です。この自然に適応して進化した結果が人間という存在だからです。自分の置かれた環境を苦痛に感じるような生物は、生き残れなかったのです。もし、まったく別の惑星からやってきた生命体が地球の環境を見たとしたら、過酷で醜い世界と感じるかもしれません。多くの人々が秩序だったものを美しいと感じるのも、そうした環境が生き残るのに都合が良かったからに他なりません。
つまり、人間は必ずしも正確に世界を捉えているとは限らないのです。脳は世界をシミュレートすると言いましたが、人間の都合の良いように世界を見ているのに過ぎません。脳の枠組みに従って世界を見ています。そしてそれが、そのまま人間の思考の限界となります。
脳はどのように世界を捉えるのでしょうか。まず、(1)脳はできるだけ世界をシンプルに捉えようとします。そのほうがエネルギーを節約できるからです。そのため、複雑な事象から一般則を捉えようという人間の傾向が生まれます。
また、(2)人間は因果律を見出そうとします。事象Aが起こって、すぐに事象Bが発生したのならば、このAが原因となってBが生起したのではないかと考えるのです。これによって、次にAが起こった時に、次に再びBが起こることを予想して準備ができます。
こういった経験が積み重なると、(3)人間は「物語」を作るようになります。過去から、こういった出来事が積み重なって今の世界が出来上がったという一連の事象の流れです。
思考を繰り返し自律的に考えられるようになると、次に(4)理論を作るようになります。事象Aが原因となって事象Bが起こる。事象Cが原因となって事象Dが起こる。この背後には、あるメカニズムがあって、それによってこれらの事象が起こるのだという説明がつくようになるのです。そうなると未だ経験をしたことのない事象Eが起こった時に、今度は事象Fが起こるはずだという予測ができるようになります。
こうなって来ると人間の脳は、目の前の自然環境とはまったく別なことを考えられるようになります。もはや眼の前の事象に支配される獣ではないのです。物語や理論から、人間はこう生きるべきだ、社会はこうあるべきだという(5)理想を心に描くようになるのです。その理念に基づいてさまざまなルールを導出するのです。こうして人間という生物は世界の支配者となったのです。
ただし、人間の思考にも限界があることは認識しておく必要があります。我々人間は、量子が粒子であると同時に波であるという説明を聞いて動揺します。量子は離散的であり、確率的であると聞いたときも同様です。人間の脳は、それを理解できるようには出来ていないからです。
我々は目の前のモノを細かくしていくと、ついにはこれ以上分けられない最小の単位に行き着くと考えたがります。物体はなめらかに空間を移動し、それはどこまで行っても最小の単位に分解はできないと考えたがるのです。量子がデジタル的に振る舞うと聞くと違和感を覚えるのです。
また脳は、因果関係を見出したがる傾向がありますが、それに任せておくと、容易に陰謀論に陥ってしまいます。それを防ぐために、自身に対する批判的精神も必要です。こういった脳の動きをよく自覚したうえで、脳を使うべきなのです。
人間の脳は上に示したような動きをすると述べましたが、すべての人間がそうなのではありません。例えば日本人です。日本人は過去から学べません。仮説を作ってそれを検証したり、未来を予想することもできません。それでは彼らはいったい脳をどのように使っているのでしょうか。
彼らは周りの人々の真似をすることに全力を傾けているのです。我々の祖先は、水田に浸かりながら、見様見真似で周りの人の動きをコピーしていました。言葉がまともに喋れるようになると、年長者から「こうしろ」と言われて、何も考えずにその通りに動きます。学校が作られると、先生から言われた通りに物事を覚え込みます。
「この漢字はこういう形をしていて、こういう書き順だ」と言われれば、何の疑問もなくそれを覚え込みます。決して「どういう由来でこの形になったのか」「この書き順に何か合理的な理由があるのか」とは考えないのです。
日本人は勤勉さを持っているかのように言われることがあります。でも、それはあくまで奴隷的な勤勉さであり、内面から発生した、目的達成のための自律的な勤勉さとは異なるものです。
彼らの思考は極めて限定的です。山間部の狭い盆地にあるムラ社会で生き残る程度の能力しか持っていないのです。暴力的な中央集権によって、「これをせよ」と命じられなければ、世界に太刀打ちできなかったのです。その中央集権機構を構成する連中にしても、能力が足りないので、結局は世界の敗残者になる他はありませんでした。この点では中国のほうが遥かに優れています。
こうした日本人とはまったく対象的に、アングロ・サクソンは世界を支配することができました。世界の多くの人々は、彼らが作ったルールに従って、彼らが支配するゲームに参加しています。
彼らはどういう考えで動いているのでしょうか。挙げてみましょう。経験から学び、思索を重ねることによって得た実践的な知恵。自分たちが異民族より、より良く人民を支配し土地を管理することが出来るという自負心と使命感。内面的な規律とそれに従うことへの誇り。人間は合理的であり、コモンセンスを持つという考え。核家族を中心とし、できるだけ自由は尊重されるべきだという信念。自分たちの理念を実現する為には時に冷酷になることも必要だという割り切り、等です。
これらの特徴が、彼らをして支配者たらしめたのです。世界を自分達が良いと感じるように変えようとするのがアングロ・サクソンであり、与えられた世界をそのまま受け入れて我慢するのが日本人です。環境が合わなかったら、変えるか立ち去るかのどちらかを選ぶべきなのにです。
アングロ・サクソンからすると、日本人が理解不能な動物にしか見えなかったのも道理です。知能指数を測ると、それほど大きな差異は無いかもしれません。けれども脳の使い方に大きな違いがあるのです。映画「戦場にかける橋」では、原理原則に従う英国人将校と、場当たり的な策を弄する日本人将校の違いがドラマチックに描かれています。
日本人は過去や未来を考えられません。彼らは、イソップ物語にある「金の卵を産むガチョウ」の登場人物に似ています。金の卵をもっと欲しいと思った強欲な農夫がガチョウを殺して全てを失ってしまう話です。
彼らは「これが儲かるぞ」と聞くと一斉に同じ方向へと進み、全てを食らいつくします。国民が子供を産まないと嘆きながら、教育費を抑え、若者を使い倒します。彼らは現在しか見えず、今手に入る利益しか頭にない人達です。その結果、滅んでしまうのです。モノだけを見ていると、容易に人間は堕落します。
理想の世界を心に抱くことが大切です。天国やイデアを信じる必要はありませんが、それが「あるかのように」動くべきなのです。理想を頭の中に思い浮かべることで、人間は、それに近づいて行こうと努力するようになります。理念を言葉にすることで潜在意識に刻み込まれ、より大きな力を持つようになるのです。
神や宗教を持つ人々が強い力を持っていたのは、こうした理由があります。今でも人類は、新しい宗教を必要としているのです。
生きるのに忙しくない者は、死ぬのに忙しい
ボブ・ディラン 「It's Alright Ma (I'm Only Bleeding)」