日本は、余命わずかな老人のように衰えています。日本を支えてきた様々なシステムだけでなく、日本の根幹そのものが揺らいでいるのです。
明治維新のスローガンは「富国強兵」でした。「富国」という手段によって「強兵」という目的を実現すると述べた、分かりやすい標語です。
しかしながら、富ます対象として国民は入っていませんでした。富むのは国だけです。「国」とは東京のことです。地方自治体は、東京を支えるために存在しているに過ぎません。
敗戦後は「富国」という手段だけが残りました。その手段が目的となったのです。外貨の獲得です。
「経済の成長」によって「外貨を稼ぐ」ことが目的となりました。
「なぜ、外貨を稼ぐのか?」と問われれば、「成長のため」と答えます。その反対に「なぜ、成長が大切なのか?」となれば「外貨を稼ぐため」と答えるのです。
国民はそれに協力するように求められました。下に挙げた1960年代のプロパガンダ映画のように、国民は「消費を控え貯金をするように」と勧められていたのです。
トランジスタラジオ工場に勤める、女性工員の日々を描いたドラマがありました。1960年代が舞台です。彼女らは、朝から晩まで、機械のように速く正確に、定められた作業を繰り返す事を求められます。貰った現金は、その場で直ぐに金融機関に吸い取られます。余った僅かばかりのカネで、最低限の生活を送るのです。
国民も、国全体も、何のために動いているのか分からない、壊れた機械のようなシステムです。人間のためのシステムではなく、システムのために人間がいるのです。それも立ち行かなくなり、衰退の時を迎えています。彼らが唱える「成長」とは、いったい何だったのでしょうか?
このシステムの中に包含される、さまざまなサブシステムがあります。その中でもとりわけ精緻に作られており、人命に関わるようなシステムがあります。医療業界や航空業界のシステムです。
システムが衰えていくと、医療事故や、航空機事故といった形で表面に現れます。ちょっとしたミスや、人員レベルの低下が原因となって、大きなインシデントを引き起こすのです。それが日本全体の崩壊を示す予兆となります。
外貨を稼ぐ大きなシステムとして自動車産業があります。自動車産業は、EVへの転換、自動運転システムの構築なしには生き残れません。
EVにしても、自動運転にしても、国によるインフラの整備が必須です。またEVへの転換は、下請け業者に大きな影響を与えます。複雑なガソリンエンジン、その周りの冷却システム、トランスミッションや、長いプロペラシャフトなどが不要になります。多くの人員整理が必要です。日本ではどちらも難しいでしょう。
自動車産業が崩壊した時に、日本は大きな危機に見舞われます。その後は、二度と元のような文明国に戻ることはできないでしょう。
それにしても「外貨を稼ぐ」とは、また何と自己中心的な目的でしょうか。稼いだカネで何をするのかを考える頭を持たないのです。まさに「無能な働き者」です。他国にとっては極めて迷惑な存在です。
憲法には、国民の「主権」や「恒久の平和」「福利の享受」と書いてありますが、歴代の指導者達が、こんな事を本気で目指していなかった事は明らかです。国民だって同じです。
いまでは、末端の国民に至るまでが「できるだけカネをもらい、消費を控えること」を目的としています。そんな連中からは、直接にカネを奪った方が早道だと指導者達は考えます。今では、給料の半分くらいが税金やら何やらで消えていきます。息をしているだけでもカネは払い続けなければなりません。
彼らの想像力は極めて貧困です。カネが何にでも交換できる事は知っていますが、それ以上のことを知らないのです。
日本人は「人生100年時代」などと言いながら、病気などで早死にしています。カネを握りしめながらです。「平均寿命が世界一」と日本人は誇ります。しかし平均寿命にはトリックがあります。
平均寿命とは、「0歳児が何歳まで生きられそうか」という見込みに過ぎません。確かに日本の乳児死亡率は低いのです。産まれた子供が1歳になるまでの死亡率です。この成績が良いので平均寿命の数値も良くなっています。
ところが1歳以上の子供の死亡率となると、途端に成績が悪くなるのです。表面だけを糊塗する、いかにも日本らしいやり方です。その乳児死亡率にしても、医療レベルが低くなれば、どうなるか分かりません。
この国では、妊娠は祝福ではなく呪いです。昔は、子供が増えることが、即、労働力の増加につながりました。娘は売り飛ばすことでカネになりました。しかし今では、自分を助けてくれるどころか重荷になりかねません。いきなり借金を背負うようなものです。下手をすると、生きている間はずっと、子供の面倒を見ないといけないのです。病院に行けずに出産しても、もし死産だった場合には〇体遺棄容疑で起訴されてしまいます。闇から闇に葬られている新生児が、いったいどれ程いることでしょうか。
この国では、人権などは存在しませんでした。国を富ませるシステムだけがあったのです。そのシステムさえも崩壊したら、人々はどうなることでしょうか。上からのおこぼれで、かろうじて生きてきた人達も終わりです。インフラが崩壊しても、元に戻すことができません。
コンビニの弁当は年々小さくなっています。唐揚げの数も減っています。バターやウインナーも小ぶりになりました。この間入ったお店の定食は、千円以上なのに葉っぱの上にカキフライが2つだけでした。それでいて、あの憎らしく毒々しい色合いの漬物が添えられています。
草を食んで生きるような生活は、我々の直ぐ目の前に迫っているのです。
おかあさんの学 ―暮らしと経済― 東京シネマ製作 - YouTube