日本は「上か下か」の社会です。しかし世界の他の国々は「敵か味方か」という考え方が主流です。どのように違うのでしょうか。そしてこれから日本はどう変わっていくのでしょうか。
人間は物事を単純化する生き物です。脳の活動を出来るだけ抑えるために、ものごとを単純な二元論にしようとする傾向があるわけです。それが効を奏せば良いですが、そうではない事もあるのです。さらに自身に自浄能力が無い場合には悲惨なことになります。
日本は序列に従うことが求められる社会です。「上か下か」で全てが判断されます。ここでは争いを避ける事で見せかけの平和を得られます。決着を付けずに勝敗を曖昧にしてしまいます。そのために無能な者が何時までも組織のトップに居続ける事があるのです。
物事を有耶無耶にするので、良いも悪いもごたまぜにした世界です。表面だけを見れば人々は礼儀正しくルールを守ります。しかしモラルや宗教、律法が人々の心に内面化されていません。だからいざ何をしても良いという環境に置かれると野獣へと変貌してしまうのです。
日本では矛盾する様々な要素が共存しています。当然それらは人間に大きな負担を与えます。しかしそのような矛盾により生まれる不都合やストレスは各自がそれぞれ処理する事を求められます。
夫婦間の関係も対等なパートーナーではなく「上か下か」の関係になってしまいます。「仕えるか」「使役するか」のどちらかです。しかも自発的に当たり前のように行わなければなりません。
何もかも受け入れてしまう日本の傾向が、多様性に繋がれば未だ良いのです。しかしそうはなりません。日本に取り込まれたものは全てが矮小化し弱々しく力を失ってしまうのです。上で述べたように序列へと組み込まれるにあたり対立を避けてその帰結を個人の内面で処理しなければならないからです。個人は自分の関心事に思い切って集中することができません。
彼らは表面的な技術や格好だけ取り入れてその背後にある力強い考え方を理解しようとしません。日本に取り込まれたものは、見かけは似ていても、換骨奪胎により本質は似ても似つかないものとなるのです。しばらくの間は上手く機能しても長続きしません。
一方で他の国々はどうでしょうか。「敵か味方か」の世界です。ここでは対立があればきちんと決着をつけます。味方であればパートナーとして信頼し同盟を結びます。敵であれば滅ぼします。相手の氏族は一族郎党皆殺しです。降伏した者は奴隷とします。ただし味方であっても、裏切りがあれば許しません。日本のように裏切りや不正があっても処分を曖昧にしてそのままにしておく事は無いのです。
日本では徳川や松平といった敗軍の将や、第二次世界大戦の戦争犯罪人をそのまま生きながらえさせてしまいました。そうではなくて、平家や源義経、豊臣家のように敗者や裏切り者は徹底的に滅ぼし尽くすべきだったのです。
「上か下か」か「敵か味方か」かのどちらの世界が良いかは様々な意見があるでしょう。しかし進化の点から見ると「敵か味方か」の方が理にかなっています。勝者が生き残り子孫をもうける。そして敗者は淘汰される。そうあるべきなのです。そのようにして環境に適応したものが生き残ります。社会も活性化するのです。
序列に従うという習性は、豚や羊といった家畜に多く見られるものです。彼らは人間の庇護を受ける事でようやく生き延びています。野に放たれたら、それらの多くは生き延びる事ができないでしょう。日本人も家畜化が進み、為政者の庇護や助成金が無くては何一つ出来ない人種と成り果てているのです。
「敵か味方か」の世界では、下剋上を狙う人物が常に現れます。機会があれば既得権益層を打ち倒します。遠慮はありません。それによって新しい社会が到来します。敗者は奴隷となり階級はより強く固定化されます。しかしそれは永遠ではありません。為政者が不適切であれば打ち倒されるのです。社会を環境に適合させ続ける為には、世界をかき回すような人間が常に必要なのです。
「上か下か」という世界では不自然な状態で階級が固定化します。不適切な人間がトップに居続ける一方で、実力のある人間が長いものに巻かれて自ら低位に甘んじます。
確かに個々人で見れば、上位の存在であっても下に転落したり、下の者が上に登ったりという事が無いではありません。しかし社会の総体としては階層構造が一気に変わるという事は無いのです。
こうして社会全体が活気を失い、国としての力を失っていきます。人々は手軽で刹那的な快楽を求め、他人への思いやりを無くし治安は悪化していきます。
日本は「上か下か」という序列社会です。しかし1946年に衝撃的な事が起こりました。「人間宣言」です。序列社会の要(かなめ)であった天皇が「実は人間だった」と国民に対して公に宣言したのです。積極的なリーダーシップをとることもなく、責任を果たすこともなく全てを放り出したのです。仕方の無い事ではありました。しかしながらそれまでに天皇を信じて戦ったり死んだりした人々が大勢いたのです。彼らの死は犬死となりました。国体の継続を考えるのなら、国の柱として君臨し続けるべきだったのです。
三島由紀夫のようにこれを国民や軍人に対する重大な「裏切り」と捉えた人もいます。「英霊の声」では二・二六事件の首謀者や特攻隊員の声を借りて「いかなる死の脅迫ありとても陛下は人間なりと仰せらるべからざりし」と書き残しています。
日本は神国ではありませんでした。全部デタラメだったのです。しかしながらあまりにも多くの犠牲がありました。人々が死に国富が失われ国土は荒廃したのです。「嘘でした。ごめんなさい」では済まない話です。しかし日本人はこれを不問に付しました。
人間宣言は日本人の無意識に大きな影響を与えました。日本人のモラルは崩壊しました。表面上は綺麗事を言い、その実自分のことだけを考え、責任をとらない人間ばかりとなったのです。
明治維新から始まった富国強兵策の帰結としての敗戦。天皇を頂点とする序列の崩壊。これにより日本人は大きな核を失ったのです。これらを総括せず、代わりとなるものも用意せず、日本人は経済活動にだけ邁進したのです。
とりあえず「核のない平和な世界を」と叫んではみたものの、自分達の経済的都合だけを考えた底の浅い思想であり、付け刃のメッキは直ぐに剥がれてしまいました。
「平和国家日本」は日本の中心思想となり得なかったのです。唯一の被爆国だから世界平和を希求する権利がある。なかなか悪くはないストーリーでした。しかし所詮は己の戦争犯罪を帳消しにしようとする誤魔化しの理屈に過ぎなかったのです。
今の日本人は左翼や知識人、平和活動家を軽蔑し冷笑しています。代わりに崇拝しているのは強いものです。右翼でさえも日本の国益よりも宗主国の利益を優先に考えています。現在の日本は平和国家の面影もありません。
敗戦前の日本人も高等な部類ではありませんでした。しかし敗戦後の日本人は明確に「卑しい」と断言できます。日本人は今もこの問題を直視しようとしません。
日本人はご都合主義です。自分の利益だけを考えて、ただ強い者になびくだけの存在です。波風を立てず、出来るだけ余計な労力やカネを消費せずに平穏に暮らして行くことだけを考えています。
日本人は無慈悲で冷淡です。他人と関わり合うことで余計な面倒を背負い込みたくないと考えています。しかし下の者を虐める事は好きです。そうして時々逆襲を受けています。馬鹿な連中です。人と関わり合いたくないのだったら虐めもしなければ良いのです。
「上か下か」という考えが明確にシステム化され、内面化されると強い力を発揮する事もあります。明治維新以降の富国強兵や、戦後の経済復興がそれです。しかしいったん「坂の上」に到達してみるとそこには何もなかったのです。
経済復興においても夢にまで見た「世界に誇る日本」「世界が恐れる日本」を達成しながら、やはりそこに何も見い出せなかったのです。
現在の日本人の「上か下か」という習性は、家畜と同じような動物的なものです。惰性としてやっているに過ぎません。それが強みを発揮する事はありません。弱者として淘汰されるしかないのです。
もはや日本に未来はありません。社会改革は不可能です。どうせ破滅するのならば荒治療が必要です。弱い者を早急に潰すのです。つまり中間層を淘汰するしかありません。それにより僅かな富裕層と権力層が生き残る事ができます。消えた庶民と中間層の後釜として移民を入れます。それしか日本という国を継続する道はありません。そして既にそのように国は動いています。
中流階級は仲良く皆揃って最下層民へと転落します。彼らは泥水を啜り草を食むのです。それでも生きられる逞しい人間だけが残ります。
日本も「上か下か」の世界から「敵か味方か」へと急激に転換します。「痩せたソクラテス」や豚は消え、狼のような人間だけが生き残ります。そうして新しい日本が誕生するのです。