kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

「タテ社会」の呪縛から逃れられない日本人

日本人の話を聞いて不快に感じるのはその傲慢さです。「民度が違う」と放言し、そのあまりの馬鹿らしさに聞き手は絶句してしまいます。もちろん、この言葉には「連中にウソをついても従順で愚かなので扱いやすいんですよ」という本音が含まれています。ところが、単純な理解力しかない愚民は「俺達が普段言えない事を語ってくれた」と大喜びです。

 

馬鹿な事を言えば言う程、国民は喜びます。 しかしながら、この国の民は容易に信用できません。卑屈であり、強い者に簡単になびくからです。だからお笑い芸人にせよ、政治家にせよ、民を愚弄しながらも警戒しており、時折その本心を垣間見ることが出来ます。

 

〈卑屈さ〉と〈傲慢さ〉はコインの両面です。「人間には必ず上下関係がある」という信念は日本人にとって根強いものがあります。無意識の考えというより、本能に近いものがあります。日本人にとって「人間は平等である」という言葉は絵空事に過ぎません。

 

 階層社会のなかで、出来るだけ早く自分に見切りをつけ、相応しい位置を見つけ、その位置で最大の利得が得られるように工夫する、それが日本で成功するコツです。自分の能力を「見極める」のではなく、さっさと自分に「見切りをつける」のです。自分の能力に無限の可能性を見出すのではありません。素早く自分の立ち位置を察する能力がないと日本では生きていけません。

 

多くの日本人はこういった卑屈さや怨念を無意識に抱いています。上位の者に擦り寄る一方で、下の者をさげすみます。ところが状況が不利だと見るや否や簡単に謝ります。反対意見が想定される場合でも同じです。「ごめんなさい」「すみませんでした」「私、馬鹿だから~」などと、すぐに降参したり土下座(!)をしたりします。もちろん本心から「済まない」と思っているのではなく、「とりあえず謝っとけばいいんだろ」とばかりに表面を取り繕っているだけなのです。

 

しかしその一方で、傲慢さも活火山のように心の中でくすぶっています。隙あらば威張り散らしたいという下劣な性根を隠し通す事ができません。

「ご不快に思われたのなら謝ります(不快に感じるお前の方がおかしい)」という言葉を日常生活でも発する人がいます。殴っておいて「痛く感じられたのでしたら謝ります。私には大した事には見えませんが…」と言っているようなものです。「遺憾である」と同じように、日本ではこういった、一見謝っているように見せかけながらも相手を非難する言葉が散見されます。

 

卑屈さと傲慢さを抱え、自分を「見切って」しまった人間は、〈自分〉を、また〈他人〉を、そして〈人間全体〉を蔑んでいます。自分を受け入れられない者が他人を受け入れる訳がありません。自分を愛せない者は他人を愛せないのです。「普通の人でいい」と言いながらも、その「普通」のハードルは並外れて高いのです。

 

厳格な上下関係のなかで人々は、(1)上には卑屈である一方で、下の者には傲慢となります。(2)常に強い者に寄り添う一方で、弱者を痛めつけます。(3)多くの人々は抑圧されており、学習性無力感(Learned helplessness)のようなものを抱いています。(4)深くものを考えられず、日々の事だけしか考えません。(5)その場限りでどうにかなれば良いので、ウソや屁理屈を常用します。(6)朝三暮四のように後先を考えず目の前の利益に飛びつきます。(7)一度何かを始めて上手くいくと、状況が変わっても、機械のようにずっと同じことをやり続けます。

 

さらに日本では、この厳しいヒエラルキーがあるにも関わらず、全員がそれに気づかない様なフリをしているのが問題です。いっそのこと、額に序列を刻印したり、瞬時にスマホに相手の地位が表示されるアプリがあれば、いかほど「察する」事が苦手な人々にとっては便利なことでしょう。現実を見ようとしない、彼らの認知の歪みは驚くべきものです。

 

身近な階層関係しか思い描けない日本人は、到底、国家や法律、政府などという抽象的な概念は自分では考えられず、その価値も認めていません。単に学校で習った記号にしか過ぎないのです。政府はまるで、町の自治会や寄合であるかのようです。徴収したカネで飲み食いをしたり、贈り物をしたり、遊びに出かけたりするのは当たり前です。自分に近しい周りの人々と利益を分け与えるのは当然だからです。

G.D.H. コールの次の言葉は日本人には永久に理解不能でしょう。

「政府が我々に属するのであって、我々が政府に属するのでは無い。政府を利用する目的は、個々人の自由を拡大するためであり、道具として彼らに使われるためではない」

 

この国には部分だけがあって、全体がありません。一人一人は弱いのに、カゲロウのように大量発生して考えも無く集団でうろつき回るので、世界に大迷惑をかけています。

 いったい彼らは、何がしたくて、何のために生きているのか不明です。外の人々にとっては永遠に神秘の国であり続けます。列島のあちこちに小さな村が散在していたような頃なら未だしも、近代的なシステムを猿真似で身に着けてしまったのが悲劇の始まりです。

最果ての島々にしがみつくようにして住む惨めな人々というだけでなく、東アジアにおける恥ずべき汚点となってしまったのです。いや、汚染源というべきでしょうか。