kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

常にスケープゴートを必要とする日本人

日本人は対等な人間関係を築くことができない人々です。「自分が相手より上なのか下なのか」、それにしか関心がありません。もちろん上の方が良いに決まっています。そのために日本人は、常にいじめる相手を必要としているのです。

 

人々は電車に揺られながら、今日はどういうネタで部下を虐めてやろうかと考えます。帰りの電車では、叱った後の部下の醜態を反芻しては心の中でクスリと笑っています。しかし部下が休んでしまうと一抹の寂しさを感じます。「早く戻って来てくれないかなァ」とも思います。もちろんまた虐めるためにです。100%完璧な人などはあり得ないのですからネチネチいじめるネタには困りません。

 

日本の人々は自然災害や戦争に上手く対処することができません。そもそも彼らは、外敵や自然と戦うのではなく、まず身の回りに居る敵と戦わなければなりません。無策を好み、補給を渋り、必要物資をピンハネする上層部、おかしな命令を連発し怒鳴ってばかりいる下士官、表面は紳士的ですが下種な士官たち、そういった人間と渡り合わないといけないのです。

もし病気になったり、災害や負け戦に巻き込まれたりしたら大変です。彼らは削除対象です。ケガレた存在です。存在してはならない者となるのです。人々はこうした被害者を共同体から除去することで「われわれは失敗しない、完璧だ、一度も負けたことがない」という幻想にしがみつくのです。2700年に至らんとする日本の栄光の歴史に思いを馳せるのです。

 

日本人は、自分たちが上になるためになら何でもします。ディベートに長けたカルト教団のスポークスマンが、TVで冴えないコメンテーターを打ち負かす様子を見た彼らは「犯罪の容疑をかけられている者でさえ、あれだけの事をしても良いのだから、私が自分を正当化して悪いわけはない」と考えます。やがて匿名掲示板を与えられた彼らは、屁理屈をこねて相手を言い負かす事に快感を覚えるようになります。

理屈だけで新しいものが生まれることはありません。理想や想像力の無い人間が、理屈を振りかざしても危険なだけです。猿が自動小銃をもてあそんでいるようなものです。

 

日本で専門家と称される人々は、プロフェッショナルではなく、アマチュアのように見えます。同好会や仲良しクラブに属しているようなお気楽さがあります。「学者さんごっこ」「政治家ごっこ」から抜け出すことが出来ません。

彼らは安全な砂場を作ってもらって、そこで自分たちだけの砂の城を作って遊んでいるような人々です。まともな学者は常に傍流であり、必要な予算を得るのに苦労しています。学者を束ねるための「学者」が別に居て、コピペのような論文を作っています。筋の通らない事を述べながらも「われわは無謬だ、われわれの存在を脅かす者は許さない」と考えています。

野球選手を見ていても、本当に世界レベルで活躍した者は日本では傍流にしかなり得ません。しかし特別に育てられた「エリート」が別にいて、彼らはそこそこの実力でも、球界を束ねる重鎮となっていきます。

そんな彼らにすり寄り、ゴマをする事が人々の喜びとなっています。彼らは印籠に土下座する一方で、彼らの意に沿わない者どもを探して痛めつけるのに懸命です。

 

そんな人々に対してマスコミは格好のエサを与えます。「河川敷でBBQをしている奴がいる」「帰省した奴がいる」「麻薬を持った芸能人がいる」「そら、みんなで叩け!」といった具合です。そのうち「あなたの隣に○○ナがいる」「○○ナは出ていけ」と煽れば、日本人同士で殺し合いが始まりそうです。

 

彼らは純真無垢と愚劣な傲慢さをはき違えている人達です。想像力に欠けているため、目に見えない理想を持つことや、それに基づいて自発的に行動することができません。「基準」がないのです。権威や周りの「規準」に従うしかなく、その場その場で矛盾した事を行います。現実主義者ですが、その現実は「お上」から与えられた「現実」に過ぎないのです。不満は感じていますが、その矛先は常に弱者へと向かいます。

 

日本の皆さんも、コソコソと弱者を虐めるのはやめて、いっそのこと悪人になってしまえば気が楽です。言動も矛盾することがありません。かってそうだったように、今こそ日本人は善人の仮面を脱ぎ捨て、思いのままに行動する時が来たのかもしれませんね。 

 

善意、純情の犯す悪ほど困ったものはない。第一に退屈である。さらに最もいけないのは、彼らはただその動機が善意であるというだけの理由で、一切の責任は解除されるものとでも考えているらしい。」「もしそれ純情にいたっては、世には人間40を過ぎ、50を越え、なおかつその小児の如き純情を売り物にしているという、不思議な人物さえ現にいるのだ。だが、40を越えた純情などというのは、ばくにはほとんど精神的奇形としか思えないのである。」

 中野好夫 悪人礼賛」