日本で様々なシステムが崩壊しています。それまで盤石と思われていたようなシステムがです。このような時代に我々はどのように生きたら良いのでしょう。
人間は自分の身の回りのシステムを出来るだけ保とうとします。食べものに心配する必要が無い環境。おカネが定期的に入ってくる仕組み。仲間に囲まれ外敵を心配しなくて良い環境。適度な労働をして報酬を得る仕組み。安定したパートナーの存在。不安なく過ごせる土地と家。自分の指示通りに動く人間が居ること。有力者の庇護を得られていること。こういった状況を保ちたいのです。
なんとなれば人間も動物に過ぎないからです。狩猟を行っていた頃から人間の精神と肉体はさほど変わっていないのです。穴蔵から出て獲物を狩る。普段は木の実や山菜を食み時々肉や魚を食べる。異性と交合し十分に眠る。仲間と共同生活を送り外敵と戦う。それ以外は遊んだり休んだりして過ごす。こういった事をずっと続けて来たのです。
カネが幾らあってもこのような仕組みが身の回りから無くなってしまえば、人間はたちまち健康を害してしまうのです。人間は死ぬまでこういったシステムを身の回りに残して置くのが理想的なのです。
だから本人が気付いているかどうかに関係なく、人間は安定していると思える今のシステムを何時までも保とうとします。「もっと良くなる」という見通しが仮にあったとしても動きません。万が一にも失敗してこのシステムを壊してしまうのだけは避けたいからです。人間はなかなか長期的視野に立って物事のメリットを勘案する事が出来ないのです。
しかし現代は移り変わりが激しい時代です。安定していると思われたシステムが崩壊する事も起こり得ます。特に現在は、政治や経済システムだけで無く人間の価値観自体が揺らいでいる状況なのです。
17世紀から現在まで、人間の外部に客観的事実が存在するという価値観が主流でした。しかしこの見方はヨーロッパ以外では必ずしも主流では無かったのです。とはいえ理性や科学的思考を重んじた結果、世界の大半をヨーロッパ人が支配し産業革命を成し遂げた事を世界は目撃しました。世界の人々はたとえ表面だけではあってもそれに倣う他は無かったのです。しかしこの価値観も盤石では無かったのです。
たとえば、1950年に発表された黒澤明の「羅生門」は、客観的事実が存在する状況であっても人の主観によって全く異なった真実が存在して終うというテーマを、映画という形で西洋に表す結果となりました。
更にインターネットが普及した現代では、皮肉にも、それぞれの個人毎に真実が存在するようになりました。ネットで客観的真理を共有するどころか、却ってエコー・チェンバー効果により自分の妄想が強化されてしまうのです。もはや文明社会が相互に前提とするやうな客観的な事実や理念は無くなったのです。庶民だけでなく政治的指導者も自らが真理と信じるものに従い国家を動かすようになったのです。
こうして科学知識の地位は相対的に低くなりました。哲学や理念になると尚更です。アメリカは長らく人類共通の「自由と民主主義」という目指すべき理念があると信じ、それを世界に推し進めるという役割を自ら任じていました。
それに対して公然と反対する宗教指導者が率いる国家が現代は存在しており、直接的、間接的な戦いが1979年のイラン革命から続いています。
宗教的な確信が人間に及ぼす影響は強大です。日本も明治維新以降に国家神道が登場して政府の海外膨張策を促進させました。西洋による植民地化もキリスト教が根本にありました。スペインやポルトガルといった国が行ったものです。これに対してプロテスタントの国々は少し異なります。特にイギリスやアメリカによる支配です。他の国には傲慢さにしか見えないものでしたが、「自由と平等」という人類共通の価値観を世界の人々に敷衍するという目的が少なくとも根底にあったのです。
この理念が揺らいでしまうと世界は再び、それぞれの宗教的真実に動かされるようになります。言うまでも無く中東はイスラム教を核として動いていますし、ロシアは事実上最後のキリスト教大国です。ロシアは神聖ローマ帝国の後継者としてユーラシア大陸における確固たる地位を求めています(たとえ一時的に賢明な指導者に率いられていたとしても長期的にはそのような傾向が見えます)。
まず我々はこのような大きな動きがある事を認識しなければなりません。自由な市場が存在し、世界の人々がそれに参加して取引が出来る。代議制という制度により個人が平等に政治に参画できる。こういったものが近いうちに崩壊するかもしれないのです。
そうして日本にはまた固有の問題があります。人口と経済が縮小して行くという難問に直面しており、為す術もありません。
中小企業の倒産が劇的に増えました。クルマを売ってもカネが振り込まれない。カネを支払って住宅を注文しても契約が履行されない。こういった事が珍しく無くなりました。
新興国が経済的発展を遂げる際には、まず簡単な部品を作る事から始まりやがて自動車の様な複雑な製品を企画し作る事が出来るようになります。現代の日本では大企業のシステムはそのままに、足元の中小企業が真っ先に崩壊して行っているのです。崩壊は一気に訪れます。そして復活は望めないのです。そうなったら農地を耕し小さな部品工場を建てる所からやり直さないと行けないのです。
インフラも崩壊し始めています。当たり前の様に道路を利用し水道を使いガスや電気を使用するという事が出来なくなりつつあります。切実なところでは、スーパーに豊富な食物が並んでいるという状況さえ消えつつあるのです。
良い学校を出て大企業や官庁に勤めれば定年まで働けて年金も貰えるというモデルは既に崩壊しています。これは戦後の経済成長の時代に始まったモデルです。
それだけではありません。明治維新以来のモデルさえも通用しなくなってゐるのです。庶民に等しく初等教育を施せば良き労働者となって国力を富ませる事ができる。そのモデルがです。
実のところ日本の成功は、安い給料で喜んで働く地方の農民を都会の工業労働者に急速に転換する事によって得られたものでした。このような大量の低賃金労働者が居れば資本家と国は大きな富を得る事が出来ます。加えて海外植民地化を進める事により土地と資源と新たな労働力を得られたのです。
第二次世界大戦後も基本的に同じです。米国の技術力や海外の資本を利用しながら、国家レベルで、地方の農業従事者を次々に工業労働者にして行ったのです。日本のIT技術者の調達も同じ様なものです。地方の人間を安い給料で働く技術者として利用し下請け企業の作業員としたのです。
日本にとって幸いな事に戦後は、米国駐留軍のおかげで軍備にそれ程おカネを掛けずに経済的成長へと邁進する事が出来たのです。しかも巨大な米国市場を日本は存分に利用する事が出来ました。
しかし現在はどうでしょうか。人口ボーナスはもうありません。日本のシステムは効率が悪いうえに労働者はやる気を失っています。
さらに現代は多くのカネが掛かります。膨大な国家債務の返済にカネがかかります。軍備にもカネが必要です。キックバックという旨味があるとはいえ、これからも世界各国への経済援助を続けなければなりません。それだけではなく、今までのシステムを保持したまま、増えすぎた上級国民やエリートを養っていかなければなりません。
日本は、バブル崩壊後に行き過ぎた金融引き締めを行い日本経済を崩壊させた後に、大規模な金融緩和を行い日本円の価値を希釈させています。
日本の国債は日本人が買っているから問題ない。円は幾らでも刷る事が出来る。円安は日本にとって良いことだ。こういった馬鹿げた理屈が通ってしまったのです。
結果として日本は今のように貧しくなりました。上級国民にこれからも豊かな生活を遅らせる為に庶民をもっと締め上げる必要があります。円安とインフレのせいで大企業は見かけ上の過去最高益を更新しています。しかるに未だに「日本は凄い」という戯言を庶民は信じています。
日本の様々なシステムが崩壊しています。止めるのは困難です。これに変わる新たなシステムを構築するのは更に難しいでしょう。
個人はどうしたら良いのでしょうか。現在あるシステムに対し最適化してしまうと、そのシステムと伴に滅びる事になります。それ故に特定のシステムに自分が最適化する事の無いように気をつけるのがこれからの戦略となります。
膨大な情報にいちいち対応するのでは無くその背後にある概念を読み取るようにします。情報や知識ではなく自分が読み解いた知恵が最も価値のあるものです。
出来るだけ広い範囲において、様々な可能性に少しづつ投資をして様子を伺うというのは良いやり方です。努力ではなく最終的に何処に自分の身を置いたかでこれからの成否が定まります。現在あるシステムを守ろうと努力するのでは無くどうなっても良いやうに準備して置くのです。
ひとつ変わらないものがあるとすれば、それは人間です。人間は数万年前からほとんど変わっていません。何を恐れるか。どういったものを好むのか。そういった環境に対する人間の反応は変わらないのです。だから人間について熟知するのは好ましい投資です。また民族の反応にも一定の傾向があります。日本人は何を好むのか。どういう行動を取り勝ちなのか。これを知って置く事も重要です。
以上の事に気をつけていれば、この先にどのような変化が起こっても充分に対応することが出来るでしょう。