日本人には独特の美学があります。無謀な賭けに臨んだ上でその失敗を潔く受け入れるのです。自分の身を滅ぼす事も厭いません。
日本人は一発勝負が大好きです。緻密な計画を立てながら大きな賭けに出るのです。それも異常な熱意を持ってです。真珠湾攻撃が良い例です。
彼らは一点豪華主義者でもあります。そうして形勢の一発逆転を狙うのです。普段は目立たず真面目に努力を重ねているのが信じられないくらいです。
古くは戦艦大和の事例があります。巨額の国家予算を注ぎ込んで「不沈艦」と称する無用の長物を3隻も建造したのです。その全てが大した戦果も上げずに沈没しています。特に未熟な乗員によって運用された「信濃」は4発の魚雷を受けただけで沈んでいます。
こんなもので日本が圧倒的な優位に立てるわけもなかったのです。そんなものよりも安くて構造が単純で耐久性があり信頼性の高い兵器を大量生産する方がよほどマシでした。ドイツのUボートやアメリカのワイルドキャット、シャーマン戦車のようなものです。あくまでも大和は、高級士官の心の中の象徴的存在にしか過ぎなかったのです。
日本政府が推し進めているマイナンバーカードも「あれもできます」「これもできます」という豪華版のシステムを望んだ結果、まったく現場の運用に耐えないものが出来上がっています。どこか日本人にはバランスを欠いた気狂いじみた所があります。
日本人はギャンブルが好きなのにそのリスクを許容できません。冷静にリスクを受けれた上でチャレンジするのならまだしも、見苦しく取り乱したり他人のせいにしたりするのです。
多くの日本人が「貯蓄から投資へ」というトレンドに従い投機を始めています。SNSにスクショ付きで詳しい報告を日々上げています。幾つかの例を集約した典型的なパターンを挙げてみましょう。
Aさんは大きな会社の次長です。仕事の合間に投資をしています。円安に賭けて限度いっぱいのレバレッジをかけていました。しかしあてが外れて円高に向かい資産が大きく目減りしました。数ヶ月前に1億5千万円ほどあった資産も現在は5千万円を切るまでになっています。ドル安円高は「米国大統領の陰謀だ」と固く信じており逆恨みをしています。結局は投資からの完全撤退を決意しました。それでも相場を忘れ去る事が出来ずに一発逆転が可能な投機のネタを未だに探しています。
Bさんは孤独な独身男性です。周りの皆んなを見返す為に投資を始めました。貯金でコツコツ貯めた5千万円相当を、相場が大きく動いた時に投資しました。逆張りでドカン、順張りでドカンです。そうして全てを失いました。SNSでは皆が自分に注目してくれたのが喜びでした。今は話題の新作ゲームで遊びながら自分を慰めています。投機を諦めて真面目に生きていこうと一旦は決意しました。でも話題の仮想通貨関連株を買えば絶対に勝てるような気がして来ています。
Cさんは20代の女性です。ADHDでコンサータ(メタンフェタミンに類似した治療薬)を飲んでいます。NISAを契機に投資を始めました。「売ったり買ったり」が楽しくて仕方がありません。今までに経験した事がない程の高揚感と集中力を得る事ができます。去年は1千万円あった資産が今はマイナス1千万円です。大負けしていますが「絶対に勝てるはずだ」と信じています。追証が来たら即座に消費者金融から借金です。相場が始まる月曜日が待ち遠しくてたまりません。
日本人のこういった傾向はどこから来るのでしょうか。日本人は一瞬に生きる人です。後先を考えません。即物的で想像力が足りないのです。「あとは野となれ山となれ」という考えです。いざとなれば死ねば良いと思っています。日本人は死後の世界を信じません。モラルもありません。抽象的な事には考えが及ばないのです。
彼らはリスクを考える事ができず、リスクを許容もできません。だから投資にはもっとも不向きな人達です。けれども表面的な華やかさやギャンブル的要素に惹かれて投機に手を出してしまうのです。「今までの不名誉な人生が一変するのではないか」という虚しい夢も抱く事ができます。しかし失敗すると他人のせいにして逆恨みをするか自殺をするのです。
日本人は死ぬ時にも体面や世間体を気にします。「華々しく死んでやろう」と考える人もいます。
三島由紀夫の「おわりの美学」という一連のエッセイがあります。女性誌向けの口述筆記による軽い読み物です。しかし彼の晩年の心境を伺い知る事ができます。「あとがき」は死の1ヶ月前に書かれています。
彼はこう述べます。「英雄となった後は余生に過ぎない。それなら死んだほうがましである」「男にとって生にぶつかって行く事は死にぶつかって行くことと同じである」「死ぬ運命にある人間にとって最高最大の夢は自分の死とともに世界が滅びる事に違いない」
三島由紀夫は「行動学入門」においても書いていますが当時の学生運動を否定していたわけではありません。むしろその稚拙な方法に苛立っていました。家に籠もって文芸に従事している自分自身にもです。
彼は陽明学の「知行合一」という考えに捉われていました。1837年にコメ高騰に苦しむ民衆の為に「救民」の旗を掲げて立ち上がり誰にも理解されずに死んでいった大塩平八郎を高く評価していました。大塩平八郎は陽明学の学者でもありました。彼らの考えではたとえ何の結果も生まなくとも自身の思想と行動を一致させることに価値があったのです。
一度頂点に達した英雄は衰えるしかありません。それを儚みながら自身の手で自分の始末をつけるのです。それが美しいのです。
森鴎外は「大塩平八郎」で、この今川氏の血をひく元与力の反逆者を批判的に描写しています。杜撰な計画で反乱を起こし結局は救おうとした大阪の庶民に損害をもたらし、多くの人々をも巻き込んで死に至らしめました。官僚として身を極めた森鴎外にとっては大塩平八郎は稚拙な人生の敗残者に過ぎません。しかし三島由紀夫にとっては森鴎外の人生こそが華の無い惨めなものに見えていたことでしょう。
三島由紀夫は死後に雑誌「諸君」で掲載された「革命哲学としての陽明学」において大塩平八郎の「身の死するを恨まず、心の死するを恨む」という言葉を引用しています。そうしてその当時の日本人に対して「心の死するを恐れず、ただただ身の死するを恐れる」人達であると批判しています。
この考えはベースとなる思想は異なってはいても、聖書にある「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」という言葉と同じように人間に身命を賭した大胆な行動をとらせる事ができます。
体制側の人間でありながら大義の為に行動を起こして処刑されたのは何も日本人だけではありません。アイルランドの愛国者ロジャー・ケースメントはイギリスの外交官でナイトでもありましたがアイルランド義勇軍に便宜を図った為に反逆者として1916年に絞首刑となりました。ケースメントは自身の動機を「冷徹な至誠の情に基づいたもの」と法廷で語っています。
冷静に動けず直情的で無計画に一方向へと突き進む日本人の傾向は、国や組織、そして本人に破滅と荒廃をもたらします。一方で日本には7世紀から複雑で巨大な官僚組織が存在します。そこでは決して失敗を認めず責任も取らずに人生を泳ぎ渡る人間が成功し甘い汁を吸う事ができるのです。
日本人は自浄能力がない人々です。巨大化した複雑なシステムを自分で変えることができません。唯一そのようなシステムを変える事ができるのが、破滅をものともしない個々の日本人なのです。そのようにして日本は曲がりなりにも発展する事が出来ていたのです。
人生はゲームではありません。やり直しが効かないのです。森鴎外のように堅実に生きるのが賢いやり方です。そのように生きるべきです。でも多くの日本人はそれが出来ません。それならばいっそのこと華々しく生きて散るのも悪くないのではないでしょうか?