日本人は原理原則を見つけるのが下手です。その代わりに表面的な対処に終始したり、周りに同調してやり過ごそうとしたりします。原理を見出す技術は生物が生き残るのに必須です。それを失った日本人は滅びの危機に瀕しているのです。
人間は法則やパターンを探し求める存在です。私たちは原理原則が物事の背後に隠れていると思っています。しかし実際は、人間が自分たちに都合の良いように法則を作り上げているのです。原理原則というのはあくまで人間の為にあるのです。
視覚を考えてみましょう。人間が見ている世界の様相はほんの一部分に過ぎません。電磁波の中の極めて狭い可視光域を見ているだけなのです。それを見て「世界は美しい」と感じているのです。もし仮に突然、赤外線、紫外線、X線、電場、重力などが目に見えたとしたら、世界は相当に混乱して見えることでしょう。
この様な混乱した世界の中から法則を見出すのが「脳」という器官です。人間に役立つものだけを抽出して後は捨てているのです。そうする事で生物は無駄なエネルギーを省くように出来ているのです。
けれどもそれが常態化すると人間は退屈して来ます。だから人は仕事や遊びをするのです。そういった場で新しいルールを見出します。しばらくするとまた退屈します。生き物というのはこの繰り返しです。
「世の中は美しい原則や法則で動いている」というのは人間の勝手な誤解なのです。「因果関係」というのも結局は人間の都合に過ぎません。「原因の原因」を探っていくと切りがありません(「無限後退」と呼びます)。仮に突き詰めようとしても、空間において因果関係が及ぼす範囲は光の速度で届く範囲を超えることはなくそれ以上の追求は不可能です。
このように「法則」というものは、生物という主体があってこそ初めて意義を持つのです。餌を得て繁殖するのに未来を予想する事は必須だったからです。
「理論」や「理想」「イデア」というのも同じです。私達が美しいと考えている「完全な球形」や「完全な三角形」は人間の頭の中にしか存在しないのです。
原理原則というのは暇人が酔狂で見出しているものではなく生物が生き残るのにどうしても必要なものだったというわけです。そして日本人にはこの認識が欠けているのです。
「原理原則を見出したい」という熱意の底には「楽をしたい」という人間の根本的な欲求が隠れています。ところが日本人は「楽をする」のを何か悪い事のように考えています。頭が弱い上にこのような歪んだ道徳観(?)を持っているが為に、彼らは原則を見つける事ができないのです。故に根本的な社会改革や文明改革を行うこともできません。代わりにやっているのはチマチマとした「カイゼン」です。そもそも「楽をするな」というのは奴隷の発想です。
日本人は努力が好きです。どうでも良い所に労力をかけます。「努力」「勉強」に異様な価値を置いています。日本人の使う「努力」という言葉には混乱が見られるのでここで少し整理しましょう。
「努力」という言葉は英語で「effort」と訳されます。「effort」は目的達成の為に自発的に自分のエネルギーを外部へ振り向ける事です。
日本における「努力」はその行為自体が価値を持っています。必ずしも目的が達成出来なくても良いのです。しかも共同体へのアピールという側面もあります。状況が絶望的でも「自分はこれだけ共同体のために頑張っています」というのを半ば強制されて示さなければなりません。これが「努力」です。
アピールですから目立つものであればあるほど良いという事になります。効果は度外視です。だから第二次世界大戦で日本が負けるのは必定だと分かると、戦闘機や特殊潜航艇で派手な自殺攻撃を仕掛けたりしたのです。勝利に全く貢献しないのに「立派な行為だ」となって仕舞うわけです。
確かに時々超人的な頑張りをするのは良いでしょう。それに結果が伴えばベストです。しかし日本では常に100%以上の頑張りを求められます。しかも英雄にではなく末端の労働者に対してです。日本人はそれを前提として社会を作っているような所があります。けれどもそんな状態を長く続けられるわけがありません。だから表面上「やっているふり」というのが常態化します。本当に頑張っている連中は早々に過労死します。
強制された「努力」だけではありません。自発的な「effort」でも日本人は勘違いをしています。たとえば投資です。労働を避けて不労所得を得ようとするのが「投資」です。それなのに日本人は必死に勉強したり頻繁な「売ったり」「買ったり」を繰り返しています。
投資について述べた有名な「敗者のゲーム」という本があります。投資で成否を分かつ要因を説明する為にテニスの例が挙げられています。アマチュアの試合で勝敗を決めるのは「失敗をしないこと」です。淡々と訓練を重ねて試合でも淡々と同じことを繰り返すのです。歯を食いしばって夜中まで努力をしたり体力の限界まで自分を追い込んで試合をするのではありません。
一方でプロは「失敗をしない」のが当たり前です。更にその状態をずっと維持する事が出来ます。その上で鮮やかなサーブやリターンを決める事により勝敗が決まるのです。そういった場面では生まれ持っての能力や集中力、ちょっとした頑張りが左右します。「頑張り」とはいっても試合中にそれをずっと維持しているのではなく、ほとんどの時間は淡々と試合を運んでいるのです。
そして言うまでもなく大抵の人はあらゆる分野においてプロではなくアマチュアなのです。超人的な「努力」は必要ないのです。
この点で日本人は根本的な心得違いをしてます。無駄な努力をする事には意味がありません。原則や法則を見出して「楽をする」事こそが正しい道なのです。このような価値観を理解して身に付けない限り日本人が文明改革を成し遂げる事は望めません。何時まで経っても他人のモノマネしか出来ないのです。何時までも誰かの奴隷です。何処まで行っても植民地状態から抜け出せません。
「努力」「勉強」という言葉には日本人の異様な価値観が纏わり付いています。このような言葉は使用禁止にすると良いかもしれません。
日本人は「勤勉だ」と自称します。しかし「勤勉」という言葉も日本においては「良い労働者」という意味に過ぎません。資本を生み出す為の道具です。
そもそも江戸時代の百姓は全く勤勉ではありませんでした。単に奴隷労働を強制されていただけです。それを「勤勉」と呼ぶのは勝手です。
現代の日本人も自発的に長時間労働をしているのか怪しいものです。努力を有難がるのは洗脳の結果です。とはいえ勤勉な労働者はモノづくりでは必須です。企業や国にとっても有り難い存在です。そういった意味では「勤勉さ」を身につけるのは労働者にとって役に立つのは間違いありません。
また人間の幸せは「過去にも未来にも煩わされずに如何に現在へ没頭できるか」という点にかかっています。この意味では、未来を心配せず複雑な人間関係からも離れて単調な毎日の作業に没頭して人生をやり過ごすというのは、それはそれで幸せであるに違いないのです。
しかし個人の幸せと人間全体にとって良いものは異なるのです。
日本人のように個々人が後先を考えずに気が狂ったように努力する事で文明が発展して来たのではありません。そうではなくて「いかに楽をするか」「いかに近道をするか」「いかに他人を出し抜くか」という考えこそが文明を推し進めて来たのです。それが生存競争に役立つのです。「エデンの園」への憧憬は人間が永遠に持つべきものなのです。
日本人はこの考えが欠けている為にこれからの世界で生き残る事ができません。海に囲まれて外部と接触しないで済む島国という環境が異様な人たちを産み育んでしまったのです。ところが現在はグローバリズムが吹き荒れる世界です。日本人には到底勝ち目が無いのです。ブロック経済に移行すればエネルギーや食料を自給できない日本は「万事休す」です。どちらにしても詰んでいるのです。
日本人は生まれつきの奴隷です。皆が奴隷なので表面上は平和に見える社会が生まれます。ところが「生き延びたい」「みんなよりも楽になりたい」という本能を全て矯正する事は不可能です。だから表面上は綺麗な事を言っても影で汚い事をやります。皆が自分を犠牲にして社会を維持しようと試みても「合成の誤謬」により社会全体では間違った方向に進んでしまいます。綿密な計画を立てても根本的なところで何時も間違っているというのが日本人です。
家畜や奴隷が自分の生活を向上させようと試みないのは当たり前です。家畜や奴隷は文明を築く事ができません。文化も育まれません。日本人は洗脳から目覚め自身が家畜である事を自覚することから、まずは始めるべきでしょう。