kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

自我が未発達な日本人(世界を正しく認知できない日本人)

日本人の認知は歪んでいます。彼らは健康な人のように、ありのままの世界や自分を見つめることができないのです。彼らの自我には問題があります。そのために、目に映るもの全てが歪んでしまうのです。カメラのレンズが悪ければ、センサー上で正しい像を捉えられないのと同じです。

 

普通の人は、過去の自分がどうであったか、自分はこれからどこへ向かうのか、そして自分を取り巻く環境がどうなっているのか、この3つについて正しい認識を持っています。精神に問題がある人は、この3つの認識が歪んでおり、それが様々な異常を生み出す原因となっているのです。

 

正しい認知には、健康な自我が必要です。そして健康な自我が生まれるには、適切な言語操作能力が必要です。ところが日本人は、ここにも問題があるのです。

 

日本人は外国語をなかなか習得できません。それどころか日本語さえ不自由です。言葉を喋るには、まず伝えたい内容があることが必要です。しかしそういったものが何も無いというのが日本人です。家庭を見てみてください。狭い家の中で、彼らは必要最小限のコミュニケーションで済ませています。顔を合わせるだけで十分とでも言いたげです。

 

それでは、伝えたい内容はどうやったら生まれるのでしょうか。「自分を持つこと」と考える方もいるかもしれませんが、「感情を持つこと」がまずは大事になります。

人間の自我は、感情を認識することから始まります。汚いものを見た時の嫌悪感は、意識せずとも顔や体に反映されます。そういった体の反応が脳にフィードバックされます。そうすると無意識のうちに「汚いものを見たから自分は不快を感じている」というストーリーを脳が作り上げます。これによって初めて、「あれを見てムカついた」という感情と認識が生まれるのです。

 

何も無い所から自我は生まれません。自分の感情を感じていなければ、自我が無いも同然です。

ところが、感情を出来るだけ意識しないように、幼い頃から躾けられているのが日本人なのです。それでは健全な自己は育ちません。

 

意識、自己、言葉、良心は密接に関係しあっています。犬や猫でも意識は持っていますが、自己は持っていません。

眼の前にステーキがあったとします。ステーキを見ると唾液が出ます。胃が鳴るかもしれません。そういった体内の情報は無意識のうちに脳に届きます。そうすると、さらに脳はステーキに注目し、細かい部分まで良く見えるようになります。こうして「ステーキを見て空腹を感じている自分」というストーリーが脳内にできるのです。この一連の流れを、頭の中で第三者的に認識するというプロセスそのものが、イコール、自我なのです。静止した自我は存在しません。

猫だって、目の前に魚があれば飛びつくでしょう。しかし猫はその一連の流れを認識していません。衝動に従い機械のように魚を喰らいますが、それを客観的に認識はしていないのです。

 

さらに人間は、この一連の流れを言葉にすることができるのです。言葉によってヒトは、抽象的な思考をすることが可能になりました。宇宙の始まりを考え、人間が滅亡する遠い未来を想像し、計画を立てることができるようになったのです。これが人間と他の動物との大きな違いです。

先程のステーキの例に戻ると、「美味しそうだけど、あとの楽しみのためにとっておこう」とか「あれはAちゃんが食べるはずのものだから我慢しなければ」と正常な人間は考えるわけです。

 

今までの流れを整理すると、情動→感情の認知→自我の発生→言葉への翻訳→抽象的思考→良心の発生となります。

自我の発生を3つめに置いたことに注目してください。脳内出血などによって脳幹の後ろが傷つき、情動を含む体内のシグナルが上位の脳に届かなくなった時点で、意識は崩壊することが分かっています。

 

意識は絶えず、体内からの刺激を必要としています。そして「その刺激を受けて自分が変化した」と認識することで自我が生まれるのです。

多くの日本人を観察してみると、上に示した流れのうち、「感情の認知」レベルで問題があるようにみえます。そのため、適切な自我が生まれず、言葉も生まれず、抽象的思考や良心も生まれないのです。

マイクロソフトの初期のウィンドウズ(Windows3.1)は、MS-DOSをベースとしたOSでした。イベント・ドリブン方式の疑似マルチタスクという酷いものです。わかりやすく言うと、一度にひとつの仕事しか出来ず、絶えず刺激を与え続けないと眠りこけてしまうようなOSだったのです。まるで日本人のようです。

 

意識や自己が生まれたのは、それがあった方が生存に有利だったからです。人間は自己があるから、自分を苦しめる環境を変えたり、そこから逃れたりすることができます。鎖に繋がれた犬やライオンとは違うのです。

ところが、日本人はどうしたことでしょう。進化の賜物である自己を捨て去りたいと思っているかのようです。ひどい境遇に置かれてもじっと我慢しています。いや、我慢しているというよりも、何も感じていないかのようです。

 

彼らは他人に写った自分の姿を見ることで、かろうじて自己を感じ取ることができます。病的な程に他人の目を気にしており、「誰かが自分の悪口を言っていないか」を、四六時中気にしています。日本人は、自分たちが「世界一親切で頭のいい人間である」と信じ込んでいます。けれども「それは事実ではない」と聞くと、凄まじい形相で怒りだします。「感謝が足りない」と逆恨みするような人たちです。

 

感情を無にし、自分を捨て去れば、日本では生きやすいのかもしれません。絶海の孤島では逃げ場がありません。我慢するような個体でなければ、生き残れなかったのでしょう。その代わりに、新しいことを生み出せる人間は存在しません。日本人はまるで精神的に去勢されているかのようです。

ヒ○ラーは「わが○争」で、もし日本が近代文明から隔絶するような状況に置かれたとしたら、鎖国時の文明水準に戻っていくであろうと書きました。今の日本人は、そうした状況を自ら望み、その方向に向かって進んでいるのです。

 

日本人は即物的なものにしか興味がなく、過去を反省することができず、未来の計画も立てられません。自分の利益ばかりで、他人、ましてや社会のことなど考えられないのです。進歩とは無縁の人たちです。

愚かな連中なので、支配するのは容易です。しかしながら問題なのは、その支配者層も相当に頭が弱いということです。

以前、クルマで某放送局を聴いていたら、「わが局では、ろうあ者の為に数秒で字幕がつくようにしています」と自局の宣伝をしていました。「AIが…」と続くのかと思いきや、「専門の担当者が、経験とカンを駆使して字幕を作っています」と来ました。この国は、もはや精神力しか誇るものがないのです。

 

ところが多くの日本人にとっては、この国ほど、理想的で幸せに満ちた社会はないのです。やはり日本人はスゴイとしか言いようがありません。

 

世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

山上憶良

世にしたがへば身くるし又したがはねば狂へるに似たり

鴨長明方丈記

 

デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫)

意識と自己 (講談社学術文庫)

感情は、すぐに脳をジャックする

精神科医が教える 良質読書

「世間」とは何か (講談社現代新書)

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