日本人は言葉を上手く扱うことができません。それゆえ新しいことを考えることができません。現代社会はとりわけ創造性が重視されます。日本の凋落は当たり前なのです。
言葉とは意思そのものです。人間の脳は一枚岩ではありません。多様な人格が混在しています。さまざまな状況に対して、適切な人格やルーチンが応じます。その後で、言語をつかさどる中心的な人格が、反応の解釈をしているのに過ぎないのです。あたかも自身が、統制のとれた一個の人格であるかのようにです。自分がとった行動の理由を紐解くのに、しばらく考えないといけない場合さえあります。ひとつの人格というのは幻想です。
しかしながら、言語を司る人格が、粘り強く自身の脳に働きかけることによって、自分の未来の行動を確率的に左右することができます。こうして人格が陶冶されていくのです。人間は言葉を取得したから、ケモノとは違って文明を築くことができたのです。
言葉は大切です。言葉によって人間は物事をはっきりと認識することができます。神によって創造されたアダムが最初にやった事を思い出してください。彼が行ったのは地の創造物に名前を付けることでした。彼の眼の前に連れてこられた様々な動物に、名前を与えたのです。自分の妻に対しても、その由来を述べたうえで名前を与えています。
ところが日本人は、言葉を軽んじています。彼らは物事を隠蔽したり誤魔化したり有耶無耶にするために名前をつけているのです。これだけでも彼らが文明人の名に値しないことがわかります。
言葉は解釈するだけでありません。未来を生み出します。旧約聖書で神は、力強く「かくすればかくなるべし」の如く宣言し、その通りに人間を祝福したり罰を与えたりします。「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」とイザヤ書に書かれているとおりです。
聖書は、言葉の大切さを繰り返し象徴的に述べています。聖書を繰り返し読んでいた民が、どれほどの事を成し遂げたかを見てください。「地を従わせよ」という言葉どおりに、彼らは世界を支配しています。
言葉は強力です。自分がやりたい事を、繰り返し唱えたり、書いたり、聞いたり、見たりするだけで潜在意識に影響を与えます。脳の全ての人格がそれに向けて動くようになるのです。それを知っている人は意外に多くはありません。
旧約聖書の神が、残忍で情け容赦なく見えるのは、自身の言葉に厳格に従っているからです。日本人にはこの厳格さが足りません。
未来を生み出すには、言葉だけでなくイメージが必要ではないかと思うかもしれません。そのとおりです。言葉によってイメージが喚起されます。しかし日本人のように物事を誤魔化すために言葉を使っていると、間違ったイメージを抱いてしまうのです。
言葉を放おっておいて、イメージだけを抱けば良いというものではありません。イメージは曖昧です。はっきりとイメージを呼び起こし覚えておくには、言葉の力がどうしても必要です。
ジェフ・ベゾスがアマゾンでパワーポイントの資料を作るのを禁止したという話を聞いたことがあるかもしれません。パワポの代わりにワードで資料を作るのです。それにはちゃんとした理由があります。パワーポイントの資料は、何かを作った気になったり、分かった気になったりします。しかしパワポを見ているだけでは、テレビやスマホを見ていたり、雑多な空想に耽ったりしているのとそれ程変わらないのです。
けれども文章ならば、明確にイメージを規定できます。読み返せば正確にイメージを呼び起こすことができます。ありありと未来の「あるべき姿」を描くことができます。そこに至る過程もストーリーで物語ることができます。事業計画では、言葉による物語が必要なのです。未来を作るのは、ポンチ絵やグラフではないのです。
このように言葉はとても重要です。しかしながら何度も繰り返しますが、日本人は国語教育を軽視しています。彼らの言語能力は貧弱です。
中学校における国語の授業での音読を思い出してください。まともに朗読できる人間は滅多にいませんでした。漢字を読めないのは当たり前。つっかえつっかえでたどたどしい読みっぷりです。彼らの音読には、リズムもなければイントネーションや強弱もありません。ほとんど人間とは思えないほどです。
みなさんは「読点」の付け方を習ったでしょうか。「意味の切れ目」「読みやすくするため」「息を吸うタイミング」と教えられたのではないでしょうか。酷い話です。実は、読点を相応しいところに付けるルールが存在します。それを知るためには日本語の文法を理解している必要があります。けれども文法の授業では、日本語にふさわしくない、西洋の文法規則を無理やり当てはめたデタラメが教えられているのです。あれではどこに読点を打つのか分からないはずです。何のことはない。日本人は日本語を知らないのです。
日本語は、漢字や醜いカタカナが混在している奇妙な言葉です。でもそれらを外すことはできません。大和言葉だけでは、抽象的な概念を扱うことができないからです。せいぜい遷ろいやすい感情や気分を何となく伝えられるだけです。漢字を含めた外来語は、日本人の実体験に基づいていないただの借り物です。ですから背景も含めて深く理解することができません。日本人は抽象的な概念を扱うことができないのです。今でもそうです。ただ借り物の単語を使って、考えた気になっているだけです。
日本人は聴覚的ではなく、視覚的に言葉を扱っています。「速読」が大好きです。言葉がシリアルに流れるのではなく、並列に頭に入っていくのです。パワポの資料を見ているのと同じです。海外にも「フォトリーディング」というのがありますが、効果は否定されています。日本人は醜い参考書のような眺められる本を好みます。そうやって取り入れた知識は、ひとつのストーリーとして頭の中で繋がっていないのです。ただ単に、Aという問いにはAダッシュ、Bという問いにはBダッシュという組み合わせを覚えているだけです。
私も仕事で大量の資料を読まなければいけない時には、パラパラめくって要点やキーワードを掴むようにしています。でもプライベートで文章を読むときには、丁寧に読んでいます。できるだけ頭の中で音読をしています。そうしてリズムやイントネーションもつかむのです。そうすれば「書き手がどのくらいのレベルか」というのも分かります。
日本の漢字には同音異義語が多く、単独で聞いただけではどれだか分からない場合が多々あります。昔から適当な当て字が横行し、人の名前に至っては「どう発音するのか」がさっぱり分かりません。
音声入力でメモをとる場合でも、ちゃんとした文脈がないと機械は同音異義語を判別できません。機械でさえそうなのですから、普通の日本人が漢字をきちんと聞き分けられているはずがありません。日本語を聞くにあたっては、文脈が分からないといけないので、言葉の前後を常に頭に入れておく必要があります。結論を知るためには長ったらしい話をずっと覚えておかなければいけません。日本語を音声だけで理解しようとすると、大変な負荷が脳にかかるのです。それでも音声言語を決しておろそかにしてはいけないのです。
日本人は言葉を適当に扱っているのに、表面的な美しさを求めます。複雑な文を避け、出来るだけ言葉を省略しようと努めます。その結果、どうとでも解釈が可能な曖昧な文になってしまいます。それで分かったような気になっています。
上下関係を維持するために言葉が使われるので、複雑な敬語のシステムが存在します。それを使い分けることに頭を使っています。平均的なキャパシティの脳しか持たない人間では、日本語を使いこなすことはできません。日本語は難しくはありません。そうは言っても、まともなコミュニケーションの道具として使うのは大変難しいのです。日本人はコミュニケーションや調整事に多大な時間をかけています。日本人の生産性が低いゆえんです。
最初に話したように、言葉は意志そのものでもあります。言葉によって人間の脳は初めて統制がとれるのです。こうしてあたかも一つの人格であるかのように、人間は考えて行動することができるのです。
言語能力の低さは、そのまま意志力の弱さを示します。意志が弱いと、ちょっとした弾みで動物的な人格が顔を出してしまいます。普段は礼儀正しく控えめであっても、何かを切っ掛けとして、別人のように野蛮な人間に豹変してしまうのです。統合された人格ではなく、まるで多重人格者のようです。
日本語は意見を表明するのにも向いていない言葉です。構造の問題で、結論や意見が最後になります。そこまで至らず、感情や気分、知識をダラダラと羅列しただけで終わってしまうこともあります。こうして全ての物事が曖昧にされたまま流れていきます。まともにコミュニケーションをとりたいのなら、結論を最初に持って来るようにしないといけません。
言葉は、「統べる」「解釈する」「考える」「伝える」「未来を作る」という役割があります。現在の日本語では、この役割をまっとうできません。
未来を紡ぎ出す強力な道具である言語が貧弱では、新しいものを創造することなど望むべくもないのです。
日本語を扱うには、上で述べたような欠点をあらかじめよく理解しておくことが必要です。そうすれば人々に新しいヴィジョンを示すことができ、ビジネスや人生でも成功するでしょう。
WHOLE BRAIN(ホール・ブレイン) 心が軽くなる「脳」の動かし方
マインド・タイム: 脳と意識の時間 (岩波現代文庫 学術 429)