kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

改善ができない日本人(より良い世界を築けない日本人)

日本人は改善が苦手です。彼らには過去も未来も見えません。今だけです。視野が狭く、目に見えるものしか信用できません。そういった性質が、彼らの能力の限界となっているのです。

 

日本人ができるのは「カイゼン」だけです。質的な変化ではなく、量的な変化を目指すだけです。無駄な動きを省き、ミスがゼロとなるように皆で頑張ります。サービス残業もいといません。より短い時間でモノを作り、歩留まりをよくするためです。

 

要するに、資本家の利益のために、献身的に自己を改良していく試みです。より効率的な機械となるために、絶えざるカイゼンを行うのです。

効率化は労働者の仕事ではなく、管理する者が知恵を絞ってやるべきことです。しかしながら彼らは、考えることさえ怠けて、責任を末端の労働者に押し付けているのです。

 

細かいところまでを「カイゼン」していきますが、そのうちに、何が重要で、何がそうでないかが分からなくなります。どうでもいい品質に拘る一方で、「足回りを支える部分のスポット溶接を忘れてしまう」といった、人命に関わるようなミスを起こすわけです。

以前に、こんな事がありました。ある自動車メーカーの、輸出向けのクルマと、国内向けのクルマの仕様が違っていたのです。安全面に関わる部分です。輸出用は、事故に備えたクラッシャブル構造のモノコックだったのに、国内用はそうでは無かったのです。それをダンピング価格で海外に売っていたのです。

そのクルマは、普及価格帯のファミリー・セダンでした。彼らの工場で働いている労働者が買うであろうクルマは、手抜き仕様だったのです。彼らは、こういったあざとい仕打ちを平気で行うのです。

 

上に述べたものとは異なり、本当の改善というのは質的な変化を伴います。ところが日本人というのは、質的な変化をとことん嫌うのです。

日本人は「アイデアにカネを払わない」というのは、よく言われることです。ジェフ・ベゾスが、自分のアイデアをナプキンに走り書きして、将来の構想を語ったというエピソードがあります。優れた考えというのは、しばしば紙の上から始まります。しかし日本人は紙切れが重要だとは、夢にも思わない人たちです。

その昔、商用コンピューターが売られ始めたころは、プログラムというのはオマケでした。プログラムを考えて打ち込むのは、客がやる事だったのです。今でも日本人は、ソフトウエアの価値をよく理解していません。

オンプレのサーバーといったインフラは、言い値で彼らは買います。ところがパッケージソフトや、システム構築費用はとことん値切るのです。まるで「人件費なんて幾らでも安くできるだろう?」と言っているかのようです。

 

日本には掟があります。下に位置する者は、上の者に対して無制限に労力を提供しなければならないという掟です。それを考えれば「業者が持ってくる仕事なんて幾らでも叩ける」と彼らが思うのも道理です。

 

日本人はどうして、かくも改善ができないのでしょうか。いくつか理由が考えられます。1)表面的なもの、即物的なものにしか興味がない。2)自分らにとって都合の良い現実しか見ようとしない。3)あるべき姿を思い描くことができない。4)自分より下の人間は奴隷のようなものだと思っている。思いつくだけでもこれだけあります。

 

彼らはただ、浮世を面白おかしく過ごすことしか考えていないのです。昔からです。日本人は、それぞれが皇帝であり、同時に卑しい奴隷でもあります。上か下か? その時の状況に応じて、王様になったり、卑屈な奴隷になったりするのです。「自分」という確たる軸が存在しないからです。

 

幼い頃から、「自分」というものを抑えるように躾けられた結果です。「自我」とは何から生まれてくるのでしょうか。安定性です。子供の頃から今に至るまで、「自分という存在は本質的に変わっていない」という感覚です。「自我」とは、外の刺激を受けながらも、自分が主体となり、変化して生き残っていくためのツールでもあります。

ところが日本人にとって、「自我」などは邪魔な存在でしかないのです。上や周りから言われるがままに、右往左往するのが日本人です。安定した自分など存在しません。

こんな人達が「より良い未来」を思い描き、それに向かって努力するなど、夢のまた夢です。「自分」が無いから、どこに向かって進めばいいのか、何を改善したら良いのかさっぱりわからないのです。

自分には、大した価値など無いと考えています。だから他人の命など、もっと軽いものだと感じています。「より良い世界」など無意味です。自分だけがちょっとラクをするために、下の者をこき使えればいいからです。

 

日本の教育は、従順な兵士と工場労働者を作るのが目的でした。明治維新以降から何も変わっていません。日本を訪れた外国人がいみじくも指摘したように、命令一下、死をも厭わぬ「ぼっけもん」を作る教育だったのです。

彼らは「自我」が未発達な、人間以下の存在です。命令や許可が無ければ何もできないのです。食べる、眠るといった本能に関わることでもです。新聞公告で「これを見て元気になれ」と、性的な部分を強調した女子高生の姿を刷り込まれれば、Chikanやセクハラにいそしむのです。こんなものでも見せれば、子作りに励むとでも思ったのでしょうか。頭の弱い人々の考える事はよく分かりません。

 

改善は自主的に行うものですが、「カイゼン」は言われるがままに動いているだけです。敗戦後は、海軍省陸軍省が解体され、公職追放もありました。日本は、部分的に無法地帯となりました。庶民は束の間の自由を得たのです。それが、日本躍進の卑しい原動力のひとつとなりました。しかし長くは続かず、すぐに、役人による経済統制が始まったのです。

日本はバブルが弾けて駄目になったのではなく、その前から衰退と破滅への道を進んでいたのです。統制経済を進めていった結果が今なのです。

 

言ってみれば、日本人は進化から取り残された人々です。大量生産の時代には、ネズミのように繁殖しました。しかし今は、絶滅へと向かっています。現代は、ヒトのもっとも高度な部分である、創造的な思考が、価値を産む時代だからです。

 

日本社会には「現状を維持し続けよう」というメカニズムがあります。改善などは、もっての他です。生命体に例えると、日本には奇妙なホメオスタシスの仕組みがあるとも言えます。

日本が世界と関わると、必ず摩擦が生まれます。鎖国をして窮乏に耐えることにより、初めて安定するのが日本のシステムです。小さな鉢に閉じ込めらた金魚は、餌が無くても、脳を小さくしながら暫く生き延びます。日本はこれと同じです。

 

「世の中を変えてやろう」などと考えるのは、御上に楯突く大罪です。食事にも事欠く状況でも耐え続け、ひたすら上の者に奉仕し続けること。それこそが、理想の日本人の姿なのです。

 

意識と自己 (講談社学術文庫)

人月の神話―狼人間を撃つ銀の弾はない (Professional computing series (別巻3))

英国貴族の見た明治日本

戦後日本経済史(新潮選書)