日本はなぜ失敗したのでしょうか。まずはお金と日本人について見ていき、次に明治時代から今までの日本を振り返ってみましょう。
カネを得るためには2つの方法があります。利ザヤを稼ぐか、付加価値を与えるかです。
ある商品が、市場Aで100円、市場Bでは150円で売られているとしたら、市場Aで買い、市場Bで売ればいいわけです。これによって50円の利ザヤを得ることができます。しかしながらこの方法は、情報化が進むにつれて次第に困難になっていきます。ましてや、素人がプロを出し抜くことは不可能です。
付加価値について言えば、例えば、ただの食パンに砂糖を多めに加え「高級食パンだ」と喧伝することで、消費者は価値を感じてカネを払います。また同時に、安い労働者や素材を探してくることで、コストを下げ、利益率を上げられます。
カネが集まると力となります。カネが余っているところから資金を調達し、カネが必要なところに貸し与えます。この場合、帳簿上でのカネの流れは単に損益を示すだけでなく、支配−非支配の関係を示す特別なものでもあります。それは一過性のものではなく、長期に渡る力関係となります。
一方で、カネでは買えないものもあります。地位や勲章といったものです。支配者が臣下の者をコントロールするのに最も有効な手段です。しかも元手がかかりません。これが欲しいがために、臣下は生涯に渡り忠誠を尽くすのです。
いずれも支配者達の特権であり、それは階層の固定化へとつながります。
さて、日本について考えるには日本人の特性を考える必要があります。目に見えないものに価値を感じることができないという、彼らの性質についてです。
商品の表面だけを見て魅力を感じることはできます。しかし本質を見ることができません。新しい理論や考え方に接して目を輝かせることもできません。想像力が限られているからです。
例えば、IT化やDX、ソフトウエアといったものは、目には見えないために価値を感じることができません。最近では、伴走型コンサルティングというのが多くなってきました。戦略やIT化の方法を提示するだけでなく、システム開発から運用まで、ワンストップで面倒を見てやるというものです。目に見えるところまで落とし込んでやるわけです。
けれども彼らは、その有難みを感じることができません。せっかく作ったシステムも、5年で減価償却される無形固定資産として帳簿に載るだけです。
また日本人は、学歴偏重主義のように見えますが、実はそうではありません。企業は新卒をあくまでポテンシャルとして見ています。「青田買い」とはよく言ったものです。しかしそのポテンシャルも、シンボルになっている必要があります。東大、一橋、慶應といったブランドです。
「これこれの勉強をしました」という経歴は、日本では価値がありません。有名大学卒というブランドを獲得しないと意味が無いのです。時間×労働力の結果が、そういった有名ブランドの獲得に至ったのであれば、その人は優秀な社会人となるポテンシャルを持っていると判断するわけです。(より正確に言うと、ババを引く可能性が低いということです)
こうして選ばれたエリートは、何かを生み出すのではありません。資源や労働力を使い、どういう道筋をつけてそれらを制御するのかという仕組みを作るのです。
科学技術とは、治水技術と同じようなものです。氾濫する川を制御し、人間にとって有用なものに変えるのです。水も、川の流れも、人間が生み出したものではありません。そのままでは人間の脅威に成りかねない存在です。しかし自然の力を上手く制御することで、新しい価値を生み出せるのです。
エリートとは別に、その他大勢の人々がいます。太平洋戦争が終わるまで、彼らには2つの役目がありました。兵隊と工場労働者です。
武力を用いて領土を拡大することにより、日本の資源を増やすことができます。工場では労働力を提供します。低賃金、長時間労働で安物を作り、それで外貨を稼ぐのです。「何を作って、どう攻めたらいいのか」という作戦は、軍需省、海軍省、陸軍省が考えたのです。
なぜ日本が大きな成功を収めたのかというと、日本人は、人権を意識した「個人」ではなかったからです。人権が尊重される国では、適切な労働時間、賃金へと収斂(しゅうれん)してきます。ところが日本では、支配者の都合に応じて無制限に働いていたのです。
太平洋戦争後は状況が変わりました。もはや侵略戦争はできません。資源を海外から調達してくる仕組みが必要になりました。それを担ったのが総合商社というわけです。その資源をどこに分配するのかを、役所や銀行が決めます。企業は、指示を仰ぎ、資源や補助金をいただいて、安物作りに精を出すわけです。
ところが現代は、大きな変革を迎えています。パソコンやコモディティ化した商品を使って、個人が大きな価値を生み出せるようになったのです。
彼らも、時間×労働力という法則に縛られています。しかし能力が抜きん出ているために、少ない時間で、より大きな価値を持つものを作ることができるのです。目に見えないものですが、どこにでも移動でき、あらゆるものに影響を及ぼします。
現代の人々は、昔とは比べ物にならないほど高度な教育を受けています。文明の恩恵もあり、ごく少数の人間がより複雑なものを作り上げています。
残念ながら日本では、教育と言いながらも、中身が精神修養となっています。奴隷を作る場所です。タダのように使える奴隷の数を誇っていたのが日本でした。しかし現在は奴隷が減少し、経済が衰退しています。
日本の失敗は、将来を考えずに人を使い潰してしまったことです。教育費さえケチりました。モノならもっと大切に扱ったことでしょう。日本では、ヒトはモノよりも価値がなかったのです。
創造的な人間は、日本にとっては脅威でしかありません。予想を超える存在だからです。国民とは、「能なしでもいい。長時間働いてくれれば」「バカであって欲しい。宣伝したものを買ってくれるから」というものに過ぎなかったのです。「言われたとおりに、無意味なことにどれだけの時間を費やせるか」というのが評価される社会です。
日本で価値がある存在というのは、地位があり、解決までの筋道を立て、それに沿って関係者の合意を得ることのできる人です。
日本では合意を得るのに、膨大な労力を必要とします。法案を作るにあたっても、多くの関係省庁とのすり合わせが必要です。有識者会議の筋書きを作り、徹夜を繰り返してまで国会答弁書作りに勤しみます。
役人が異動や出向を繰り返し、マメな連絡を欠かさないのは人脈を作るためです。有名大学出身であれば、それだけで縦横に伸びるネットワークを得られます。そういったネットワークが、情報収集だけでなく、合意形成や説得に役立つのです。
管理職以上になると、実務は少なくなります。それでも地位や高給を得ているのは、広範で影響力の及ぶネットワークを持ち、説得力があるというのが重宝されているからです。
こういった合意形成のプロセスが重視されているので、革新的なアイデアや意見が、日の目を見ることはないのです。
国を挙げてのデジタル化が頓挫しかかっています。そもそも、分散している情報を統合してデジタル化するというのは本質ではありません。
それは「資源」に過ぎないからです。いくらデジタル化だ、AIだと言っても、価値あるものを見極め、それを掘り出すのは人間なのです。
「ダイヤモンドを見つけるぞ!」と言ったところで、ダイヤモンドを見たこともなく、使い道も知らないのでは話になりません。「カネになりそうだから、とりあえず道具や装備を整えました」という、愚かな人に過ぎないのです。DXを推し進めても、AIが勝手にダイヤモンドを見つけてくれるわけではありません。
今は、形のないものに付加価値を与えられる人間を育てなければならないのです。その付加価値というのは、世界中の誰が見ても不変の価値が感じられるものです。
日本人は「よく頑張りました」という見せかけを大切にします。千羽鶴とか千人針とかです。ボタンが沢山付いただけの使いにくい電化製品などに価値は感じられません。
本当の価値は、商品の表面にはなく、本質にあります。きれいな包装紙につつまれていても、中身が空っぽでは意味がありません。
日本では、本質ではなく、意味のないものに労働力を投下します。奴隷が作ったものなので安く売ることができます。その結果、日本の製品はカルト的魅力を持つに至ります。例えばアニメのようにです。それだけが唯一の価値と言えるでしょう。
「当たるのか当たらないのか」が分からないものでも投資をしなければなりません。多くのカネが必要です。昔はパトロンがその役目を果たしました。それと同時に、才能のある人を見つける「目利き」が必要です。
創造力を発揮できる環境があり、才能を見つける「目利き」がいる場所から、偉大な芸術や学問、文明が生まれるのです。
カネは大事です。しかし、カネを得ることを目標にして、そこから逆算して考えるのではないのです。カネを得るには、一旦、カネのことを忘れる必要があるのです。
お金は必要ですが、カネやモノの重要性が薄まっているのが現代です。それよりも人生において「いかに興味深い体験ができるか」ということの方が大切なのです。
家を持ったり、クルマを所有したりすることの意味がなくなります。決まった職業や、決まった住所というものさえ無くなります。人間関係も、その時々に応じて、緊密になったり離れたりするものになります。家族という固定的な関係もやがて無くなるでしょう。
真の「個人」が実現する世界です。その時、日本人はそれに順応していけるでしょうか? あるいは日本こそが、時代の最先端を走っているのかもしれませんね(笑)
MORE from LESS(モア・フロム・レス) 資本主義は脱物質化する (日本経済新聞出版)