子供の頃、移動図書館を利用した際に、家には無かった百貨辞典を読みふけっていたら、それを見つけた職員が突然「キャハハ、それは大人が読む本!」と言って読書を邪魔した事がありました。裸の女性が載っている訳でも無いのだし、そもそも、子供が読む本と大人が読む本とに分かれているなんて、おかしな話では無いでしょうか。
日本人は、子供が分不相応な知識や知恵を身につけることを嫌っているように思えます。子供の頃は本を読んでいても「何かの役に立つだろう」と大目に見てくれますが、次第に「こいつは体を動かすのが嫌で本ばかり読んでいるのではないか」と訝しがり始めます。彼らにとっては「本」という入力が、「いい学校に入る」という「実用的」な結果に繋がらなければいけないのです。
人々は批判を繰り広げる者を見つけると、それを抑え込もうとします。「医者でもないのに病気について語るな」「学者でもないのに勝手な予想をするな」「ブンヤのくせして政治を批判するな」といった具合です。まるで当事者でなければ何も語ってはいけないかのようです、しかし肝心の当事者は説明責任を果たしていないのです。
日本人は不言実行を好みます。つべこべ言わずにさっさと働けという訳です。本当に黙って働くので、次第に上は調子付き、「老人は早く○ね」「女は子供を産め」「ガキは身を粉にして働け」と言うようになります。
大岡昇平の書いたものを読むと、戦場では、ずる賢い老兵は適度にサボりながら自分の体を労り、生き延びたりしますが、キビキビと疲れを知らずに働く若年兵は、病気にかかると案外あっさりと死んでしまったようです。
メンターとして新人を指導しながら「こういった事が評価されるんだから、しっかりと書かなきゃ」と洗脳したり、労わってあげたり、時々オフでネトウヨっぽい事を言えば、尊敬の眼差しで見られたりします。
彼らにとって、こうした無垢な若者をどんどん利用しない手は無いのです。
この国には余計な事を考えなくても済む様に、上下関係や、仲間かどうかをはっきりさせる仕組みや方法があります。仕事においても遊びにおいてもです。
例えば、対等な条件での契約が結ばれ、関係者で会食をするとします。すると「私は○大です」「私は○○○の政経です」とまずは自己紹介が始まります。これは初めての修学旅行で、入浴の際に、お互いにオチンチンを見せ合うのと似たようなものです。「みんな、同じようなもんだナ」と安心して、初めてプライベートな話へと進むのです。万が一、規格外のものがあっても、それは見なかった、聞かなかったことにします。
普段、考えることを出来るだけしないようなシステムになっている事もあり、日本人には理屈が通じません。身内になればなるほど酷くなる傾向があります。その代わり、無条件に「すみせんでした」と形だけ頭を下げれば済んでしまう事が多々在ります。
全く話が通じないのなら、理屈が通じる赤の他人と話していたほうが、まだマシではないかと思う時もあります。こんな生活に慣れているから、日本人は理屈抜きで従ってくれる忠実な奴隷を求めます。部下はもちろん、パートーナーにしても、子供にしてもです。
依存し奴隷に出来て、稼いでくれて守ってくれ、飾りにもなる、そういった人が「身内」として理想です。「結婚しない」「結婚できない」と世の中が騒いでいるのも無理はありません。
日本人は自分達全員を低いレベルに保つことによって人生をやり過ごそうとします。身を粉にして働き苦しみに耐え、休日には家でボーッとして寝ていたり、ギャンブルをする事で幸福を感じます。誰かが虐められたり、叩かれているのを見て幸福を感じます。「普通が一番」「健康が一番」と言って、低いレベルでの「平和」を尊びます。
彼らは考える事を止め、決して理想を見ようとしない、人生を楽しく生きようとする工夫を絶対にしない人達です。光を避け、深海魚のように暗がりの中を漂い、海底近くで「上だ、下だ」と言いながら、束の間の快楽にふけります。日本人にとって人生とは、こういったものに過ぎないのです。