日本人は恫喝が大好きです。相手が委縮するのを見て喜びます。相手が上であれば、どんな卑屈な事でも厭いませんが、相手が下と見るや否や、高飛車な態度で怒鳴りつけるのです。
散歩の途中で、家族連れが道路脇の公園で遊んでいるのを見かけました。ところが彼らとの距離が近づくと、急に母親が大声で子供を叱りだすのです。不快に感じても、まさか自分がその女性に注意をする訳にも行きません。こういった場面は良く目にします。子供ではなく、犬を連れてている飼い主も似たような反応を示す事があります。日本人は常に第三者を意識しながら生きています。不気味な人達です。
内輪での楽しみの場に「ソト」の人間が近づくと、彼らは急に不安を覚えます。「私がこの場では一番偉いんだぞ」というのを内外に示さなければなりません。「ウチ」に在っては、子供に「人に迷惑をかけてはいけません」という表面的なメッセージを送ると同時に、「この場では私が上である」と「ウチ」と「ソト」に宣言しているのです。
何も分からない子供はいい迷惑です。初めて接するダブルスタンダードを強いる日本人が、自分の母親なのです。困惑と混乱、そして不安が彼らの無意識に刻み込まれて行きます。長じてもそれは人格に影響を及ぼし、歪んだ性格の持ち主となっていくのです。
日本人は模範を垂れることと恫喝は同じだと考えています。そのために信じられないような人権侵害がそこかしこで行われているのです。
父親が子供を恫喝し、母親はそれを黙って見ています。それだけでなく、父親が居ない時には、子供に八つ当たりを繰り返します。彼らには恫喝や虐めと、教育の見分けがつきません。
「多少やりすぎたかな」と思っても、「いや、自分は世間は厳しいんだとコイツに教えているんだ」と心の中で開き直ります。
こういう「虐待」を受けて育った子供は、共感力や思考力に欠ける人間になっていきます。前頭葉を発達させるには安定した静かな環境が必要ですが、こういった子供はその機会を奪われています。
彼らは不安を常にかかえています。正常性バイアスが激しいのも、最悪な事態を想定できないのも、冷笑を常とするのも、やたらと「平常心」を強調するのも、こういった精神の不安定さから来ています。不安を抱えているので想像力が限られ、冒険をしたり、新しい事を試みる事ができません。
子供の頃に「自分はダメな人間だ」と思ってしまうと、本当に駄目な人間になってしまうのです。こうして委縮しながら育ったのが、今の日本人です。
弱者に対しては誰もが虐める権利を持つと考えるのが日本人です。見つけ次第、皆で徹底的に叩くのです。「世間は甘くねえんだ、それを叩き込んでやる」という訳です。
彼らはあまりにも、その傾向に囚われているが為に、自分の権利さえ手放してしまう愚かな人達でもあります。憲法にある「健康で文化的な最低限の生活」というのはただの宣言に過ぎません。その権利は「生活保護法」によって初めて規定されるのです。しかし日本人は生活保護を嫌い、それを利用する他人を攻撃するのです。
日本の教育と受験制度は、個々人の暗記力やキャパシティの余裕を測るには良い手段でしょう。しかし大多数の人にとっては、「負けた」「俺には資格がなかった」という挫折感を与える代物です。少数の選ばれた人と多くの「負け犬」を生み出す制度です。こうして、上に対しては諦めと恭順が常となっていきます。
日本社会では、「恫喝と恭順」をそこかしこに見ることができます。外交の場でさえ、恫喝染みた事をやってしまうのが日本人です。しかし「相手の方が上だ」と見做すや否や、卑屈な態度で恭順します。学問の場でも、職場でも「政治」が主な関心事となっています。日本人が政局を語るのを好む理由です。業績は上がらず、肝心なスキルは身にきません。その代わりに調整事や政治手腕には長けるようになります。これが日本人の言うところの「コミュニケーション能力」なのです。
「政治」は力学です。(1)この場では誰が偉いのかを見極めるセンス、(2)誰が主役で、実際に操っているのは誰なのかを見抜く洞察力、(3)誰にどういったコネや後ろ盾があるのかを絶えず調べる能力、さらに、(4)こういった場において、自分がどういう位置にあり、自分がどこまで動いて良いのかその上限を見極める判断力、これらが、日本人にとっては必須のスキルなのです。
「強ければ偉くなれる」そして「偉ければ好きにその力を行使してよい」というのが日本人の価値観です。恫喝も暴力も虐めも何でも有りです。
逆に下の人間は、何をされても文句を言えず、黙って耐えねばなりません。上から下まで徹頭徹尾、この考えで統一されているのが日本人なのです。