kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

意味や感情が希薄となり、自我も失ってしまった日本人

日本人には人として信じがたいような軽薄さがあります。まるで魂や心が欠けているようにも見えます。

 

ある種の異常行動の原因のひとつは物事に適切な優先順位や強弱をつけられないところから来ます。

例えば手を何度も洗わないと気がすまない不潔恐怖と呼ばれる強迫性障害ですが、普通の人は多少手が汚れても許容できるものですが、この人達は何かに触っただけで気になり手を洗わずにはいられません。あるいは注意欠陥・多動性障害("ADHD")では頭に浮かんだ事を順序立てられず衝動的に行動へと移してしまいます。またサヴァン症候群の人達は、過去に見た光景を細かい部分までありありと覚えていてそれを絵に描く事ができます。

 

通常、過去の出来事の中で重要でないものは記憶が段々と薄れていき、また未来の予想についても差し迫っていなければ危機感を持つことはありません。現在を頂点として、過去や未来の両方向に行くに連れて意識の中におけるそれらの重要度が下がっていくのです。

 

すなわち、時間が進めば、未来はより現実感を増し、それらが頭に自然と思い浮かび、それに基づき人は行動していきます。また当人にとって思い出したくないような過去の思い出は時を経るに従い薄れていきます。

ところがもし過去と未来が、まるで現在と同じようなリアルさで感じられるとしたらどうでしょうか。才能に恵まれていれば預言者(笑)になれるかもしれませんが、大抵は精神に変調を来たし奇妙な行動をとるようになります。

日本人は、過去・現在・未来を明確に分化出来ていない未開人のようなところがあります。すっかり忘れている過去の悪行を指摘すると突然怒り狂い、また、将来の不安に怯えているのに考える事を止めています。

 

新しい事を覚えられず昔の事も忘れていく、ある種の疾患(コルサコフ症候群 "korsakoff syndrome")においては、患者は作話を繰り返し、本人は全く自覚していませんがウソをつき続けることによって自分と周りとの安定を図ろうとします。言葉は明瞭で頭の回転も速い場合があるのですが、内容は支離滅裂で、他人への誠意や思いやりといったものは全く感じられなくなります。

このように、普段は意識していなくても、頭の中で時間を明瞭に区分して認識する能力というのは、人間にとって非常に大切なものです。

 

日本人のSNSでのやりとりを見ていると、まるで良く出来たチャットボット("chatbot")のように見えることがあります。どこかで見たような文やレトリック、内容の寄せ集めであり、個性は感じられず、表面的な気遣いか、悪意ばかりで人間性も感じられません。日本人は、言語機能のみならず、それ以外の大切なものをも喪失しています。 

当然ながら、人間は言語だけで考えているのではなく、根本的で重要な部分を別の方法でも考えています。そういったものは、言葉以外の豊かな表情や仕草、一貫した行動、あるいは芸術としての音楽や絵画などでも表現できます。これらを通じて、他人はその人の最も深い高潔な部分を感じ取る事ができるのです(例えばベートーヴェンは崇高な観念さえも音楽で表現することを試みました)。

 

犬や猫でさえ、同情心や暖かな善意のようなものを持っており人の心を和ませてくれます。ところが驚くべきことに日本人相手だとこういったものをあまり感じないのです。まるで人として大事なものを失ってしまった、言葉を喋る獣です。 

彼らは未熟で適当な言葉を使い、感性が非常に鈍い人達で、表情が乏しく何を考えているか分かりません。毎日ボンヤリとして人生を過ごしています。

彼らの意識の中では、あらゆる物事が均一化してしまい、意味や感情が希薄となり自我喪失に陥っています。彼らは他人を、実感を伴った「人間」として見られず、人のような形をして立ったり動いたり喋ったりする、ただのモノとして見ています。

被暗示性が高く、独立した「主体」には決して成り得ず、普段は大人しく飼い慣らされていますが、時に欲望を満たす為だけにどんな事でも行うケダモノとなります。

 

時間が明確に認識されていないと真の「自我」は生まれてきません。また自らが主体となって言語を扱えるようで無いと「意志」も生まれません。日本人は本能と理性の両方を、言わば失ってしまった人達です。彼らの異様なまでの冷たさ、無気力・無関心さ、行動力の無さはここから来ます。自我が確立されていないので、他人との距離を上手く保てず、時に集団と同一化したり反対に身近な者を激しく憎んだりします。

 

「自我」が無ければ当然、時間の流れの中での「一貫性」は存在しようが無く、その場しのぎの都合の良いウソを生涯にわたってつき続けるようになります。喪失を喪失と感じられず、それを何とかしようとする意志力もなく進歩もありません。

日本人は統合されていない混沌の中で生きているパラノイア("paranoia")なのです。