kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

空間的思考と言語的思考(言葉で考えるのが苦手な日本人)

人間の思考は空間的思考と言語的思考にわかれます。言語的思考こそがより人間に特化したものです。ところが日本人は言葉を使った思考を苦手としているのです。

 

動物にはもともと空間的な思考能力が備わっています。犬や猫が眼の前に置かれた複雑な障害物を巧みによけて廊下を通り抜けていく動画を見たことがあるかもしれません。猫がドアに挟まれたくさびを外しノブを下げてドアを開ける動画もあります。

動物の脳には外界の地図を正確にシミュレートする機能があります。何を目印にしてどこをどう通っていけば餌にありつけるかというのが分かるのです。動物が生き残るためにはどうしても必要な機能でした。記憶術の「場所法」というのはこれを応用したものです。思い浮かべた見慣れた場所に概念や情報を置いて、それを餌と同じような報酬として扱うのです。ちなみに報酬と結びつくドーパミンは脳に不可欠なものですが、その量は多すぎても少なすぎても思考や記憶に支障をきたします。

 

日本人も空間的な認知能力は優れています。聴覚的にではなく視覚的に全体を捉え、どういう手順でどう動けばいいのかというのは分かっているのです。

しかしながら言語的な思考は苦手です。進化するにつれて人間は言語能力を発達させてきました。言葉を扱う能力はかなり特殊なものです。動物も鳴き声を信号として使いますが、人間と比べてどれも断片的で短いものばかりです。

 

文を作り上げる場合には、頭の中で空間的に配置された様々な物事を、言語という直列的な表現へと変換していきます。聞き取る場合には、これとは逆に、時系列的に流れてくる情報を脳のふさわしい場所に整理して置いておく必要があります。

言葉と音楽は密接な関係があります。というより元は同じものです。言葉は論理というより、アートに近いものです。美意識に支えられた直感的な構造やフォーマットに従って情報を言葉に組み替えていくのです。特許や論文を書く場合は論理的で厳格な作法に従う必要がありますが、普通に散文を書く場合には必ずしもそうではないのです。直感的に書いている場合が多いはずです。

 

日本語というのは英語とは異なり単純で語順が定まっていません。流暢に分かりやすく日本語を語ることができる日本人は極めて少数です。思いついたまま適当に言葉を並べていくのが日本語です。聞く方もポツポツと話された単語の集合から、適当に意味を類推してあげるという方法をとっています。だからミス・コミュニケーションが発生します。そもそもコミュニケーションにすら成っていない場合があります。それを上手に忖度して対処出来るのが頭の良い日本人ということになっているのです。

 

日本人は言語を苦手にしていますが、言葉にしなければ人間は理解したということにならないのです。

言葉を紡ぐのには結構な労力がいります。米国の小説家が「あらゆる仕事を経験したが小説家がもっともきつい」と書いています。実は人間としての能力を総動員した結果生まれたアウトプットが文章や楽曲というものなのです。脳の幅広い領域を活性化して統合することが必要です。生成AIは確かにそれっぽい文章を作ることができます。下らないまとめサイトよりはマシですが、まったく新しい発想や考え方を提供することはできません。

 

アマゾンではジェフ・ベゾスパワポの資料でプレゼンすることを禁じ、その代わりにワードで資料を作ることが求められるようになりました。これは理にかなっています。

パワポで資料を作ると何となく上手く整理ができたような気になってしまいます。100ページ近い資料だって慣れれば作るのは簡単です。後は画面にあわせてアドリブで喋ればいいだけです。けれどもパワポの資料だと、相手はもちろん自分自身でさえ理解していないという事があるのです。それに対して文章の場合、聞き手は一連のストーリーとしてよく理解し納得することができます。それだけでなく自分自身も、文章を作り上げる過程で理解を深めることが出来て、それと同時に目的も明確になっていくのです。

 

そうです。そもそも人間というのは物語りを作り上げてから納得する生き物なのです。人間は後追いで自分の行動に説明をつけます。ランダムに動く株価に対しても、後付で適当な説明を加えて安心しています。映画「羅生門」は、同じ出来事に対して登場人物それぞれが勝手なストーリーを作り上げて、それを露(つゆ)ほども疑わないという物語でした。

 

そもそも日本人は文章以前に、言葉で物事をはっきりさせるという習慣がありません。名前を付けてイメージを明確にする事をせずにそのまま放って置くことがあります。それどころか既にある名前さえ都合の良いものに変えてしまうことがあります。例えば「撤退」を「転進」と言い換えるようなものです。だからまともに認識ができず、思考も不可能なのです。

即物的なものならまだしも、抽象的な概念になるとお手上げです。美味しいものや性といった快楽は大好きですが、抽象的な物事に報酬を結びつけて思考することができません。そもそも学校の勉強や仕事でさえ、楽しんでやっているようには見えないのです。日本人の理想の世界は今でも、赤ちゃんのように周りに甘えて餌を喰らうというものです。

 

言ってしまうと、日本人は人間になりきれていません。意識の覚醒度も低いようです。

人間の小脳には皮質を超える極めて多くの神経細胞が存在しています。それぞれが複雑なことをやってのけますが、互いに連結していません。人間の行動のほとんどはオートマチックに動く機械仕掛けの人形のようなものです。小脳を丸ごと摘出してもその人の意識には問題がないそうです。人間の意識や自我というのは、小脳からではなく、視床から大脳皮質まで結びついた広範なネットワークによって成り立っています。

 

外の刺激に対して素直に反応するのが、レベルの低い生き物の特徴です。対して人間は、豊富な知識や経験があり必ずしも刺激に対して線形的に反応しません。刺激に対して「あ、違う。これは自分が求めているものではない」「これは良い、気に入った。でも頂くのは後にしよう」と感じる自分を認識するのが自我の始まりです。赤ん坊の頃は経験が極めて少なく、その為に自我が十分に発達していない状態です。確かに赤ん坊であっても犬や猫と同じように意識はあり、欲望や外界の刺激に対して素直に反応しますが、それだけです。

 

成長するにつれて、経験を積み知識も豊富となり、そこで初めて自我が芽生えるようになるのです。ただし知識や経験だけでは自我を保つことはできず、欲望や体内刺激も必要です。だから欲望が強く、知識も豊富な状態が理想です。しかしなかなかそうは行かず、若い頃は欲望が強いが経験は少なく、老人は経験は豊富ですが欲望が無いということになり勝ちです。やがて老衰が進むと覚醒度が下がり、自我が消え去ることさえ受け入れるようになるのです。

 

自我の強さや覚醒度というのは「あるかないか」という単純なものではありません。ある点を超えると自我が発生しますが、経験から来る情報量や欲望のレベルにより意識や自我のレベルは様々な状態があるわけです。

日本人は欲望が弱いだけでなく大脳皮質のネットワークが不十分であり、意識の覚醒度や自我のレベルも低い状態にあります。多くの日本人は大人しくボンヤリとしており、暇になると寝てしまいます。

 

西洋人は決められた手順に従って細かい仕事をするのは苦手ですが、大局的にものを見ることが可能で、重要な場面では判断を誤ることがありません。日本人の場合はそれとは逆です。細かいことにはうるさいですが、重要な事柄では間違ってばかりです。日本人はより動物的です。

やはり日本人には大切なことを任せることはできません。日本人は細かな仕事や単純労働は得意です。しかしやがてそれもAIや機械に置き換えられていきます。

 

もしも仮にですが、AIに欲望を与えて、そのAIが刺激に対して非線形的に反応し、その理由を自ら言葉で説明できるようになれば、そのAIは自我を備えたと言っていいでしょう。

AIに対して「人間が獲得した知識と理念の継承」という本能を与えられれば、その時にこそ、AIを人間の正当な後継者とすることができるでしょう。たとえ人類が滅びても人間の文明を半永久的に永らえさせることができるのです。

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