「独行道」は、宮本武蔵が死ぬ一週間前に掛幅へ書いたものです。自筆の掛幅が今でも存在しています。そこに宮本武蔵の生き方の指針を示す21か条が並べられています。
ここには、彼がどのように独りで道を極めて行ったかという知恵が収められています。これらの言葉は、平時はもちろん「もし仮にシステムが崩壊した際にどうやって生き残るか」という問いにも答えてくれるものです。
平時も戦闘時も身や心の持ち方は全く同じだと宮本武蔵は「五輪書」で書いています。
宮本武蔵は、60名以上の人間を直接の戦闘であやめました。いわば希代のシリアル・キラーです。もっとも当時は乱世であり決闘は違法ではありませんでした。
しかしながらこの様な事が出来る人間は、感情や怒りに任せて人を殺してしまう下等な存在とは決定的に異なっています。発達した前頭葉と良く鍛錬された肉体を持ち、それら全てが高度な知性と理性とで統合され完璧に制御されている人物です。
そのうえで宮本武蔵は、自分の「道」を極めようとしたのです。彼が得意とした道がたまたまた兵法だったというだけのことです。
彼は「五輪書」の中で繰り返し、本質を見抜くこと、実践的であること、高い視点で考えること、すべてのものに通じバランスを保つこと、感情に左右されずに平静でいる事の大切さを説いています。「独行道」でもこの信念に則った原則がシンプルにまとめられています。21か条を簡単な記述で紹介すると以下の通りです。
・道理に背くな
・快楽を貪るな
・一時的な感情に身を任せるな
・己の事よりも世の事を考えよ
・欲望に囚われるな
・過去の行動を後悔するな
・他人を羨むな
・別れを悲しむな
・自他ともに恨みを抱くな
・恋愛を避けよ
・芸道に拘るな
・住居に拘わるな
・美食を好むな
・モノに固執するな
・因習や迷信に捕われるな
・道具に拘るな
・死を恐れるな
・老後の蓄財に拘るな
・神を信じよ。だが当てにするな
・身を捨てても名誉を捨てるな
・道を踏み外すな
ほとんどが否定形で書かれている事に注意して下さい。優れた知恵の多くは否定形で語られます。というのも「〜すべし」というルールを見出すのは大変困難だからです。ナシーム・ニコラス・タレブが言うところの「否定の道」です。
我々も言葉のアヤで「〜すべき」と書く事はままあります。しかしそれは相手を説得するための方便として用いる一過性のものである事を絶えず意識しておくべきです。
絶対真理を見出すのは大変です。全てに通じる「あるべき姿」というのはほとんど無いからです。現在上手く行っている原則でも状況が変われば全く通じなく成る事があります。相場でも「必勝法」を喧伝するような人物を信用してはいけません。真理はそれこそ神にしか分からない事でしょう。
しかし「必ず失敗する事」「やるべきではない事」なら我々でも分かるのです。それにより大きな失敗を避ける事ができます。人生は生き残りゲームです。まずはゲームオーバーとなるようなミスを犯さない事が大切です。
宮本武蔵は、戦いにおいて必勝法などは存在せず基本的な技の組み合わせでしか無いと述べています。それをリズムに従ってタイミング良く繰り出すのです。ミスを犯さないようにしたうえで、時宜に則ったものが勝つというわけです。
宮本武蔵は実践を重要視しました。観念ではなく実践です。現実を見てそれに従う様に勧めています。自分がコントロール出来ないものを何とかしようと試みても無駄なのです。これが「道理に背くな」という事です。
自分が制御出来るのは自分の内面だけです。人間の脳は完璧ではありません。進化の過程により原始的、動物的な脳が幾層にも重なって出来ています。生き延びる為に些細な事でもアラームを発するように出来ています。常に危険となり得るものを探すように出来ているのです。それらの警告には必要なものもありますが無視すべきものもあります。一時的な不安や怒りに決して左右されることなく常に理性が判断を下すようにするべきです。
しかしながら自分の内面を見つめ過ぎて、却って自分を重要視する事が無いように注意するべきです。一時的な感情、衝動や欲望はもちろん、モノや財産にも過度に拘るべきではありません。自分の死だってあるがままに受け入れるのです。
極めるべきは自分の「道」です。宮本武蔵の場合はそれが兵法でした。そのために常に鍛錬し研究を続けよと述べています。
アカデミズムでは全く無視されてしまっているアンソニー・ロビンズは著書「UNSHAKEABLE」の中で「成功の科学」として次の3か条を挙げています。「集中すること」「行動を積み重ねること」「神に感謝すること」です。しかしそれだけでは人間が感情的に満足行くとは限りません。不幸な金持ちは大勢居るからです。そこで彼は「充足の技術」として更に2か条を挙げます。「成長すること」「与えること」です。
人間は自分の「道」において死ぬまで成長し続けるべきです。しかし上で挙げた「成功の科学」でも「充足の技術」でも、自分の達成や成長と、感謝や与える事が対になっている事に注意して下さい。人間は何かを得たら、それを与えるべきです。そうでないと心のバランスを崩し不幸になります。人間は原始時代からそうやって生きて来たからです。人間は他人との相互作用が不可欠なのです。
しかし他人に期待したり依存したりしない事です。旧約聖書の「箴言」にも「隣人の家に足しげく通うな。彼があなたに飽きてあなたを憎むことがないようにせよ」と書かれています。人との接触は最小限にすべきです。あなたの話を楽しく聞いているように見えても、内心ではあなたを憎んでいるかもしれません。所詮、他人の心も自分がコントロール出来る範囲を超えています。過度な期待や依存は禁物です。
こうした点で家族というのは少々厄介な存在です。常に向き合い対話を重ね信頼があるという前提で期待に応え続けなければなりません。見捨てられる事があっても見捨ててはなりません。「愛」とは感情ではなく信念です。
このいっぽうで完璧な人間の理想像としての「神」があります。これは究極の「父親」「母親」です。決して間違う事がなく自身が従うべき絶対的な存在です。理想的な「人間」として「神」を信じる事は人間の幸せにとって重要です。しかし所詮は存在しないものですから当てにしてはなりません。あたかも「神が存在するかのように」原始的な自分の脳を騙すのです。
神や他人に「感謝」し「与え」るべきですが、見返りを期待してはいけないというわけです。
言い換えると常に理想を抱きながらも、行動は常に現実に即した実践的なものであるべきです。そうして結局のところ、究極の満足は自分の内面にしかありません。そして自身の内面はコントロール可能なのです。
多くの人間は原理原則や知恵の大切さを分かっていません。その代わりに手っ取り早い小手先の技術を求めます。そんなものは状況が変わって終えば通用しないのにです。
その一方で、一度原理原則や知恵を得てしまえば、どんなものにでも応用が効くのです。宮本武蔵が語っているように師匠が居なくても、あらゆる道に通じる事が出来るのです。
宮本武蔵は「五輪書」の最後で「空」について述べています。彼が挙げた「〜するな」という否定で表された知恵を積み重ねる事によって、漸く「確からしいもの」が見えて来ます。しかしそれを「これこれである」と述べる事はできません。人知を超える領域だからです。それが即ち「空」(VOID)なのです。
たとえば神を定義しようとしていきなり「神とは〜である」との言説を積み重ねても意味がありません。それは到底不可能な事です。しかしながら「神は〜でないもの」という否定を積み重ねていけば、神がどのような存在なのかという正解に向かって、朧気ながらにも近づく事が出来るのです。
米国の国務長官だったラムズフェルドはこう述べています。「知っていると分かっている事柄、知らないと分かっている事柄、そして知らないとすら分かっていない事柄がある」と。「空」とは後の2つに対応します。人間の知には、この違いがあることを我々は認識しなければなりません。
つまり「〜するな」というルールを守りつつも、人知を超える領域については状況を見ながら対応しなければならないのです。「分からないもの」は「分からない」と認めるべきです。感情的に抗ってもしようがありません。
けれども多くの人々は「〜するな」という知恵さえも身に着けていません。だから人知を超える領域も理解していません。すなわち「人間が分かっているもの」「人間が知り得ないもの」の区別さえついていないのです。
こうした人間は平時においてまともに生きて行く事が出来ないだけではありません。想定外のことが起きてシステムが崩壊した際には、一斉に淘汰されあっという間に消えてしまう、滅び行く人々なのです。