kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

人間のあるべき姿 −ヘルマン・ヘッセ「シッダールタ」−

数多(あまた)ある書物の中でも人生の節目において何度も読み返すべき重要な本があります。ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」はそういった本のひとつです。人間がこれから目指していくべき方向についての大切な示唆を得ることができます。

 

シッダールタは釈迦の出家前の名前です。彼に擬えた主人公の精神的な成長に併せて、人間はどのような段階を経て成長していくのかを記しています。あくまで物語に過ぎないのですが「人のあり方」についての深い考察がなされています。

 

人間にとって「時間」は大切です。歴史において現代ほど時間が重要になった時期はありません。時間を経ても変わらないもの。それが物事の本質です。現在の資本主義システムの世界で成功するには、そのような抽象的な本質をどれだけ明確にイメージできているかが極めて重要な要因となっています。この社会では、人は不安だから本を読んだり情報を集めたりして絶えず学んでいます。しかしそれとは別に自然から直接学べることがあります。

 

「知恵とは全てのものに統一を感じる能力だ」と本の中でヘッセは語っています。それを感じた瞬間には、もはや自分自身さえも重要ではなくなります。「小我」は捨て去られ全体に統一されるのです。人間が夢見ていた「神」と同一の姿です。

知識とは異なり、知恵を伝えるのは難しいことです。普通に話したのでは、単なる「痴れ者」として扱われてしまいます。例えば普通の人は、イーロン・マスクがやろうとしている事を理解できません。彼やジェフ・ベゾスの「火星」や「宇宙」に対する執念を目の当たりにして、人は「頭がおかしいのではないか」と思うばかりです。

 

眼の前の人を愛してしまうのは「小人」です。その段階を超えると、人は時間を超えた本質を愛するようになります。個別の人ではなく「人間」という抽象的な概念を愛するのです。「人を愛する」というのも、本当は眼前の老いたパートナーを愛しているのではなく、過去から連なるその人の本質を愛しているのです。

 

今まで述べたことよりも、さらに悟りを開いた次の段階についての説明が本にあります。「時間を捨て去る」という事です。物理学の分野でも「時間は存在しない」という考え方があります。我々はつい「時間軸というものが存在し、過去や未来へ行き来する方法が存在するのではないか」と普通は考えてしまいます。

 

けれども「時間は単に人の頭にあるものでしかない」という見方もできるのです。ただ単に「いまこの瞬間」の物理世界しか存在しないという訳です。もし時間が存在しなければ、その時に「世界はひとつになる」とヘッセは述べています。

過去の痕跡は現在の物理世界にも存在します。未来に繋がる萌芽も存在しています。「いまこの瞬間」の世界は、すべてを包含した完璧な存在なのです。時間を意識しないようにすれば、目標を見据えて果てしなく頑張ることもなくなります。二項対立的な考えもなくなります。矛盾や争いもなくなります。こうすることによって人間は初めて自由になれるのです。

 

それと比べると、現在の資本主義システムには目的が存在します。資本の蓄積です。お金を媒介として、全ての人が持つ能力を極限まで引き出すことができます。このシステムは、文明が永遠に成長し進歩し続けていくことが前提となっています。けれども実際にはそれは不可能なことです。だからたびたび大恐慌や戦争が起こることになります。そのように文明をリセットすることで、再び成長を可能にするのです。

 

人間は抽象的な理想の世界や「あるべき姿」を思い浮かべると、つい現実の世界と見比べて失望を感じてしまいます。今までは「あるべき姿」に向かって成長するのが、理想の人間の姿だとされてきました。けれどもそのような考えは常なるものとは言えません。人間は、ただ生きて現在を楽しんでいるだけの存在であっても良いのです。

 

「言葉や思想には意味がない。人もモノに過ぎないからだ」とヘッセは言います。時間に追われることなく、眼前の完全な世界を眺めて満足を覚える。これが人間の理想の姿なのかもしれません。

シッダールタ(新潮文庫)

世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論