日本人は日本語を苦手とする人達です。自分たちの言葉でありながら、まともに扱えません。言語能力が低いだけでなく、教育内容が劣悪なこともあり、国語力低下に拍車をかけています。
小学生や中学生が「算数は国語と違って答えがひとつだから好き」と話すのを聞くことがあります。残念ながら、たったひとつの正解というものはこの世にありません。前提がある上での正解です。偉い人が言うところの決められた正解があると考えるのが、日本人の悪いクセです。
現代国語にも、日本人が考えるところの「正解」があります。国語のテストは、限られた文章から、出題者が考えるところの「正解」を当てていくゲームです。
もし国語の教師が、ひとつの文章の中には複数のテーマが流れており、いろいろな解釈が可能であるというのを教えてくれたとしたら、その人は良い教師です。もっとも、点取りゲームには役立ちませんが…。
日本の教育では、文章の書き方を教えません。文章を書けないのでは、思考力を持っていないのと同じことです。そもそも日本では「ガキどもが自分の意見を表明するなど、飛んでもない」と考えられています。
連中は、教えられたひとつの正解をオウムのように繰り返していれば良いという訳です。間違っても「君は革新的な考えを持っている。素晴らしい!」と称賛されることはありません。何も言わずに唯唯諾諾と従うのが優秀な人間とされます。忖度までしてくれるのが理想です。
この国ではマスコミが、国が発表した情報をそのまま垂れ流すような御用メディアに成り下がっています。政治記者自身も、権力者の心に寄り添うことが何より大切だと考えているような始末です。
日本の文章では、最初に結論を述べない悪い習慣があります。会議でも、何をテーマにして話すのかは決まっていても、どう進めるかを予め決めていません。だから日本人の話はいつもダラダラと流れていきます。アジェンダもなしに会議を進めています。
小学生の作文や読書感想文と同じです。「昨日は学校で遠足に行きました。Aちゃんも一緒でした。とても楽しかったです」「走れメロスを読みました。友達を信じるのはいいことです。わたしもそういう人になりたいと思いました」「信号無視をしている大人の人を見ました。ルールを守らないのはいけないことです。そういう大人にならないように気をつけたいと思います」といった文と本質的には変わっていません。
日本人は、なかなか自分の考えを表明しようとしません。そもそも自分の意見など持っていないのです。けれども犬猫並みに欲望は持っています。会議では探り合いが続きます。お互いに納得できる着地点を探すのです。その結果はみんなで決めたことだから誰の責任でもありません。
日本人は誰かに警告する時でも、主体を曖昧にして、自然現象か何かのような書き方をします。例えば「違反した場合は刑事罰を招来することになります」といった表現です。
日本人は責任を追求はしませんが、被害者意識は強い人々です。「雨に降られた」「相場にやられた」「コ○ナにやられた」と言います。迷惑受け身という表現です。「被害を受けて憤懣やるかたないが、責める相手もいないのでどうしようもない」といった怨嗟と諦めの気持ちを表しています。
一方で「東大に落ちた」とは言っても、「東大に落とされた」とは言いません。明らかに自分の落ち度であって、正体のはっきりしないものに責任を負わせることができないからです。
彼らは常に不満と怒りを抱えています。都合よく外国人や移民のような人々がいれば、全てを彼らの責任にして激しく憎みます。
しかし彼らは、こういった事象の真の原因を探ろうとはしないのです。だから自然現象の原因や原理を見出すこともできなかったのです。自ら原則を打ち立てて、自律的にそれを守るということもできません。
原理原則は苦手ですが、上下関係だけは、はっきりしています。上が立てたルールはどんな理不尽なものでも従わなければなりません。しかし上の人間は、そのルールに従う必要はまったくないのです。誰も非難しないからです。
日本人というのは、慣習や、偉い人が気まぐれで言ったことに盲目的に従っているだけです。自ら文明を発展させることができない人種です。外から突かれて、ようやく猿真似を始めるのが精一杯です。
日本人の思考方法には欠陥があり、言葉にも欠陥があります。彼らが作る社会システムも欠陥だらけです。けれどもそれに気づくこともありません。言葉を改良すれば少しはよくなるかもしれません。そこに期待を抱くしかないでしょう。