kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

抽象的な思考が苦手な日本人

日本人は目に見えない抽象的なものを思い浮かべるのが苦手です。

数学が好きな中学生が「国語と違って数学は答えがひとつだから」と理由を挙げる事があります。大きな誤解です。

教えられた手順に従って進めていくと、自動的にひとつの答えが出てくるのが数学だと思っているのです。ここに日本人の能力の限界が見えます。日本人は言われた手順を覚えて素直にその通りに実行する事を得意とします。繰り返し練習することで速く出来るようになる事を競います。計算ができる人はいても、数学ができる人はそれほど多くないのです。

 

問題からひとつの解答を求めるにしても、確率や統計の分野を不得手とする人がいます。確率や統計で用いられる段取りは、科学的手法の基礎となるものです。これが苦手では学問はおろか、仕事で必要な分析さえも出来ないでしょう。

確率の問題の多くは文章で出題されます。文を理解し、実際のケースを思い浮かべた上で場合分けをしていきます。そうしてどのように答えを導き出すのが最も効率的かを考え、それぞれの確率を計算した上で、最終的な答えを出すのです。単に目の前の計算問題や図形を見て解くのとは違い、文章読解能力と想像力、分析力、全体の構想力が必要です。どれも日本人が不得手なものばかりです。

 

確率や統計は、時間や空間を超えて、複雑なシステムの動きを巨視的に捉えるツールとして役立ちます。出てきた結果は絶対的なものではありませんが、込み入った事象をどのように把握したらいいのかを理解する助けとなるのです。

「何々が起こる可能性は何パーセント」という結果でさえ、日本人の鈍い頭にはなかなか響きません。身近なのは、せいぜい降水確率ぐらいなものでしょう。帰無仮説有意水準になると、ほとんど説明不可能です。

確率論はもともとブラックジャックのようなギャンブルで勝つための分析から始まりました。一方で日本の昔ながらの博打といえば、「丁か半か」の賭博です。

日本人は実力と運をバランスよく配したゲームを考案することが出来ませんでした。直観的にそれぞれの要素が起こる確率がどれ程なのかを想像出来ないのです。

彼らは運任せが好きです。例えば野球のように、チーム全体の実力というよりは、偶然の要素や、個人の能力と調子、審判の恣意で勝敗が決まってしまうゲームを好みます。

 

もっと大きな所に目を向けてみると、疫病の蔓延を予測し、マクロで必要な対策を実施するというのは、日本人がもっとも苦手とするものです。「このままではパンデミックが起こります」と言っても「それは絶対に確かなのか」と言われたら終わりです。「確率が何パーセント」では動けないのです。

ゾンビや吸血鬼が居れば分かりやすいのですが、相手は目に見えないウイルスです。しかも調査や検査の結果も一部分のサンプルでしかなく、母集団の傾向は推測するしかありません。対策も、カネがかかる割には効果がはっきりしません。厚労省の検疫所や自治体の保健所は日陰部署です。

職場には、マッチポンプのような人がよく居ます。トラブルのネタが在っても大きくなるまで放置します。いよいよ火が大きくなった所で颯爽と登場して火消しをするのです。リスクは小さいうちに潰すのが鉄則ですが、そういった仕事は目立たず評価もされないのです。パンデミックになった後で「特効薬があります」「ワクチンがあります」と叫びながら動き回った方が庶民は喜ぶし、カネも動くというわけです。

 

統計学では「信頼性」と「妥当性」という言葉があります。信頼性は「何度測っても、ほぼ同じ値が得られるかどうか」という、テストとしての精度を問うものです。妥当性は「求める対象を実際に測れているのかどうか」を問うものです。例えばIQテストが測ろうとしている「知能」は実際に目に見える形で存在するわけではありません。目には見えないけれども、自分たちが定義をした抽象的な概念を捉えようと人々は試みているのです。得られた数値が役立つのであれば、その抽象的な概念にも意味があります。

しかし日本人の場合は、本質的なものには目もくれず、ひたすら信頼性だけを問題にします。彼らにとって「自分達が何を知ろうとしているのか」には興味がなく、「教えられた通りに正しく遂行できているのか」だけが関心事です。

 

日本人は直接目でとらえられないものを視覚的なイメージで頭の中に描くのが苦手なのです。目の前にある将棋盤や碁盤をもとに頭の中で図形を動かす事は出来ても、新しく、目に見えない社会の抽象的なモデルを思い描いたり、病原菌、ウイルスが蔓延していく状況を想像したりするのが難しいのです。彼らができるのは、せいぜい二次元のグラフやマトリクスをホワイトボードに描くくらいでしょう。

 

エネルギー事業者の大事故の時のように、適当にダラダラやっていれば、そのうち誰も騒がなくなるだろうという日本の目論見は外れました。

世界的なパンデミックの中で日本はビリケツに近い成績を出しています。文明国や先進国のフリをしていましたが、彼らが何も理解していなかった事が明らかになったのです。「いや、まさかそんな事はないだろう」と世界の人々は思いつつも、「どうやら本当にバカのようだ」と気付き始めています。

彼らは礼儀を心得ているので失礼な事は言いません。しかし日本がこれまで通りの傲慢な態度を改めないのであれば、その限りではないでしょう。