kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

音楽と言葉を理解できず抽象的思考ができない日本人

日本人は抽象的な思考を苦手としています。なぜでしょうか。音や言葉を処理する能力と抽象化の能力は関係しています。ところが日本人は、音声処理が苦手なのです。彼らの思考能力に限界があるのは、こういった理由もあるのです。

 

人間が世界を認識する場合に、頼りとする知覚は、おもに視覚と聴覚です。視覚を利用する場合は簡単です。目に写った具体的な事象をそのまま頭に記憶します。何か計画を立てる場合には、そのイメージを頭の中でつなげていくのです。

 

聴覚の場合は、やや複雑です。耳から入った情報は手がかりに過ぎません。音を具体的なイメージに結びつける必要があるのです。人類がアフリカのサバンナで生活していた頃に、周りからガサガサという音が聴こえたとしたら、それは天敵が忍び寄って来ている事を示していたのかもしれません。どの方向にいて、どのくらいの速度で何処に向かっているのかも判断しなければなりません。刻々と変わる環境に応じて、人間同士で素早いコミュニケーションをとる必要もでてきます。音声による伝達手段は、人類が生き残るのに役立ったのです。

 

音楽を聴く場合でも高度な想像力が必要です。渾然一体となった音の響きから、リズムやメロディー、そして和音を聴き取らないといけません。それらを再統合した上で、作り手が何を伝えようとしているのかを想像するのです。

音楽は、絵画のように空間上に同時に提示されるのものではなく、時系列で流れていく芸術です。音のつらなりが進むことによって、初めてメロディーや和声を捉えられます。曲全体を聴き終わることで初めて、どのような構造の音楽だったのかを理解することができます。

 

音楽と感情が密接に結びついているのは偶然ではありません。音楽は人間の生理的な仕組みに基づいているのです。リズムやベースは人間の心音を表しています。長音階であれば明るく感じ、短音階であれば暗く感じます。テンポが段々速くなれば興奮し、クライマックスに近づいたと感じます。

ジャズやブルースで使われるブルーノート・スケールは、長調の和音に、短音階のメロディーが組み合わさったような構造になっています。アフリカから連れて来られた奴隷が、農場での重労働を終えたあとに、何か楽しい気分になろうと楽器を手に取るも、何故か歌声は暗いものになってしまう。そういった起源を想像することができます。

一方で日本には、音楽好きはほとんどいません。そもそも日本では、音楽や楽器が日常生活に根付いていません。踊りをする人もいません。型通りに練習しているだけです。あるいはせいぜい、皆と騒いで楽しんでいるだけです。

 

音楽だけではなく、言葉も同じように高度な処理能力を必要とします。言葉を構成する単語それぞれが示すものを頭に思い浮かべるだけでなく、それらを頭の中で文法的につなげて、相手が何を言おうとしているのかを推測します。

さらに理解を進めるためには、会話の内容だけでなく、相手のこれまでの発言、キャラクター、さらにはその土地の文化といった、コンテクストまで考える必要があるのです。

要するに、言葉にしても音楽にしても、音をもとに抽象的な空間構造を頭に浮かべ、それらを何段階にも抽象化することによって、深い理解を得ることができるのです。

 

ところが日本人は、これが大の苦手なのです。自分たちで文字を発明できなかったという事は、聴覚的な刺激を具体的なイメージに変換することが出来なかったということを示しています。

現代の日本人も、言葉を扱うのに苦労しています。英語を何年習っても上手くはなりません。かろうじて読むことができるくらいです。会話やライティングになると絶望的です。単語だけを拾って推測しているので、相手の言うことを正確に理解できません。日本語をもとにして英文を書くので、滅茶苦茶な英文が出来上がります。

 

彼らは日本語さえも、うまく扱えないのです。SNSを観察してみましょう。文章全体ではなく、単語レベルで反応している人達が大勢います。文章を書く場合でも、俳句レベルの短さしか書けません。長く書こうとしても、校長の演説のような意味不明で退屈なものになってしまいます。読めもしない漢字を打とうとして、日本語変換を試しながら似たような漢字を見つけ出します。それは、しばしば間違っています。重要な地位にいる人間が頻繁にこのような文を書いているのを見ると、驚愕を禁じえません。

 

言葉だけでなく音楽も、コミュニケーションの手段です。言葉では伝えられない感情、崇高な気持ちや勇気といったものも伝達することができます。

日本人は言語も音楽も苦手なので、自律的に仲間を助けることができません。上から命令されたことに忠実に従うので、まるで協調性のある人々のように見えます。しかしそれは見かけだけです。本当は他人の事など考えていません。「他人くたばれ我繁盛」というのが本音です。

彼らは他人だけでなく、自分の境遇を理解する想像力も欠けています。もし想像力があったとしても、それを誰かに伝える能力が足りません。しかし彼らは我慢強いのです。手足も動きます。奴隷にうってつけの人々です。

ホモ・サピエンスが生き残り、脳も体も大きかったネアンデルタール人が滅びてしまったのは、音楽や言葉を使う能力が不十分で、仲間と協力しあえなかったからだという説があります。日本人も滅びゆく人達と言えるかもしれません。

 

日本では、言語能力が劣っている事が普通なので、言葉を巧みに扱える「文系」の方が、支配的なポジションに就くのには有利です。女性はやや言語能力が優れており脳梁も太いので、知能指数が同じだったら、男性より女性のほうが有能といえます。

こんな日本では、驚くことに文章を書く教育がなされていません。せいぜい読書感想文どまりです。文法もほとんど教えられません。しかも実態と合っていない間違った文法です。

文章を読む場合には、目で単語を拾うのではなく、できれば音読すべきです。大量の資料を読みこむ場合や、よく知っている分野の本については、私も速読する場合があります。けれども内容があり、綺麗な文章の場合には、頭の中で音読しながらじっくりと味わっています。さらに本全体を読むことで、書き手の思考の進め方や世界観がわかってきます。

 

こういったように、言語を処理することが苦手な日本人は、視覚と結びついた具体的なものしか頭に浮かべることができません。未来を想像することもできません。場当たり的に、目の前にあることから解決しようとします。目的がないので、やっている事がしばしば矛盾します。少子化対策をおざなりにしながら、防衛力強化に邁進します。金利を上げる一方で、相変わらずカネをばらまきます。

 

日本人は「余命わずか」と宣告された貧乏人に似ています。「これが最後のチャンス」とばかりに「今までやれなかった事をやってやろう」と散財する愚か者です。日本は衰退しているのに、憲法改正だ、先制攻撃だ、軍事強化だと、カネを浪費していたら、日本経済が復活する見込もなくなってしまいます。このままでは、将来に禍根を残すことになります。

 

形あるものや、カネしか考えられないのが日本人です。肝心な中身はおろそかにしています。他人の目は気になりますが、自分の中身は気になりません。表面だけを綺麗に白く塗って澄ましていますが、中身はゴミ溜めです。自分を知らず、相手の事も分からないので、百戦連敗しています。それに気づくこともなく同じことを繰り返しています。彼らは決して本質を捉えられないのです。

 

ただでさえ馬鹿の多い国です。あのような連中に任しておいて良いはずがありません。今のままだったとしたら、日本は滅亡への道を進むだけです。

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