年老いた男性とその娘らしき人達が会話をしていました。
娘:「最近は外国人の働き手も増えてきて・・・」
父:「気をつけるんだぞ」
娘:「え?」
父:「分かるだろ(---奴らにレイプされるんだよ!---)」
娘:「どういう意味ィ?」
父:「あいつら外国人や貧乏人は、平気で人を殺すような連中なんだよ」
人はとかく自分のレベルでものを考えたり、無意識の願望を誰かに投影してしまったりするものです。多くの日本人は自分が仲間と認めた者以外は、人間とは認識できず、平気でモノ扱いをしてしまいます。
日本の人々は、外国人が出ている映画やドラマを観ていても、何か非現実的なもののように感じ、彼らを自分達と同じ人間とは認識できません。似たようなパクリ映画を日本が作り、その中で日本人が出てきて日本語を喋っていると、ようやく安心して観ることが出来ます。そうかと思うと彼らは、在り得ない造形のアニメやキャラクターに同情したり愛情を寄せたりします。彼らの認知は自分達に都合が良いように歪んでいます。
であるからこそ、日本人は平気で非人道的なことが出来るのです。狭い共同体の中だけでものを考え、そこに居る仲間だけが「人間」なのです。しかし、例え自分の息子や娘であっても、一旦、「仲間ではない」と認識すれば、「勘当だ!」「お前は俺の子ではない」等と叫んだりして、軽々しく絶縁を口にしたりもするのです。
日本人は外の世界に対する認知が歪んでいるだけでなく、自分のなかにある非人間性をも認識できません。人はどうしても心の中で、悪意や憎しみが生まれるのを避けることは出来ないものです。
しかし日本人は、周りの雰囲気に動かされて無意識に犯した罪は許されるべきだと考えています。はっきりとした考えで計画的に悪事を成すことだけが犯罪で、衝動的に強姦したり、浅はかな思いで陰口を叩いたり、人を罠に嵌めたりしても、それは悪くは無いと思っているのです。はなはだしくは、善意による行為だとさえ感じているのです。ですから他人からそういった行為を批判されると、当然のごとく激昂します。
「私は善良で礼儀正しい日本人だ」「~さんはいい人だ」と思えば、全てが正当化されるのです。表面だけいい人ぶっていれば、善人という事になるのです。
狡猾にも、多くの日本人はそう思われるよう、常に心がけて居ます。日本に邪悪が蔓延している理由のひとつです。法に触れなければ、周りに糾弾されなければ、何をやっても構わないのです。
自分が気に入らないと思う者に対しては、試験勉強で苦手科目を克服するかのような熱心さと執拗さでこれを排除するように努めます。他人を陥れて不幸にすることが、相対的に自分の幸福を増進することだと考えているのです。
日本のシステムも、善悪を正しく裁くことができません。役人や元役人であれば報道は控えめになり罪も軽減されます。日本において「役人」は完全な存在であり、間違いを犯すはずが無いのです。
一方で、一般市民が交通事故を犯せば何を言っても、「あんたねえ、カーブでタイヤがいきなりスリップしたとか言ってるけれど、事故を起こしたのはあんただけなんだよ。スピードの出しすぎか、ハンドル操作を誤ったんでしょ!」と警察に怒られてしまいます。
行政は常に正しく、お上が用意したインフラは的確に整備されていますが、市民は常に間違いを犯す存在でなければなりません。全ての責任は個人に還元されます。ローカルルールに従って道路交通法を踏みにじる人々が報道で紹介され、憎むべき対象として糾弾されています。この国では、当局が認定した、もっともらしい悪だけが裁かれるのです。
個人のレベルで認知がはなはだしく歪み、彼らによって作られたシステムも歪んでいます。しかし彼らがそれに気づく事はありません。自分の考えにバイアスがある事を認識することは難しく、それを冷静に認めることは、さらに難しいのです。自分だけでなく周りも同じような人間であれば、なおさらです。目を開かせる人々が現われない限り、この国は精神的な盲目状態からいつまでたっても抜け出せないのです。