自殺について、仮に、<生活圏>、<決意の度合い>、<冷静さ>、<他人との関わり>という4つの軸を用いて考えてみます。
飛込みは、通常、生活圏内かそれに近い場所で行われるものです。その凄惨さ、公共の交通機関を麻痺させてしまうこと、場合によっては賠償金請求などで残された家族にも迷惑をかけてしまうにも関わらず、この手段を選ぶのは本人の精神状態にほとんど余裕が無い事を示しています。焦燥感を抱き「早くこの生き地獄から逃れたい」「精神的苦痛を一刻も早く確実に無くしてしまいたい」という思いに囚われているのです。ですから、場所の選定や、他人、実行後の事については、全く考えられない状態なのです。
これに対して自○の名所などで*のうとする場合は、未だ余裕があると思われます。生活圏の外にまで出て旅をする体力、精神の余力が多少あるという事です。行ってはみたものの、やはり*に切れなかったという場合も多いことでしょう。こういった場所に行くのは、決意に自信が無く、名所に行く事で、先に*んでいった大勢の人々に思いを馳せ、覚悟を得たいという試みでもあるのです。
首吊りは、生活圏の中の静かな場所で、確実に*にたいという場合に使われます。通常、自宅や職場などの見知った場所で、かつ、一人になれる場所で行う行為です。切羽詰った場合も、未だ多少余裕がある場合もあります。*に際して、他人に関与しようという考えはありません。
飛び降りは、生活圏の中で行われる場合には、衝動的、発作的なものです。自宅のベランダに出て、あるい屋上などで下を覗き込み、「ここから落ちれば楽になれるかもしれない」とつい思ってしまうのです。これが人通りの多い場所にあるビルや塔によじ登って飛び降りを試みる際には、「誰かに助けて欲しい、自分の苦しみを分かって欲しい」という表現である場合があります。
焼身自○は抗議的な意味合いが強い方法です。かなりの苦痛を伴いますが他人に与える衝撃度も大です。心に激しいものがあるが、それと同時に計画性と固い決意が感じられます。特に生活圏の外に出て、象徴的な場所で実行に移す場合、他人や社会に対する強烈なアピールとなります。
今の日本では、精神的な余裕が無い程に追い込まれている人が多く、さらに、確実に目的を果たそうという強い意志を持った人が増えているのかもしれません。他人との関係は減っていますが、いざ関わる場合には激烈な形をとる場合があります。
また日本人の場合、家族など、親しい(と本人が思っている)他人を巻き添えにするケースが、しばしばあります。
この理由のひとつとして、日本の社会においては、他人を巻き込む行為について、許容の度合いが大きいというのがあります。日本人に愛されている(?)忠臣蔵ですが、これは、職を失った役人が逆恨みをして、大勢の仲間を巻き込み、大義名分の下に大量○人を犯した上で切腹するという、悪質な犯罪を基にした物語です。日本では一家心中で、当人が生き残ってしまった場合でも大目に見られます。それなりのステータスがある人間が、家族や親しい仲間を巻き添えにするのは、美談とならないまでも、大いに情緒酌量の余地があると見られるのです。
一方で、一生懸命に生きて来た弱者が悲惨な状況へと追い詰められてしまったのは、全て自己責任の結果であるというのが、一般的な認識となっています。「他人に迷惑をかけずに、一人で*ねばいい」と言うのであれば、安んじて確実に命を絶つ事のできる、安楽死のシステムを整備するのが最善という事になってしまうのでは無いでしょうか?