日本人は他人をモノのように扱う人達です。彼らには人間性という概念が欠けていて、他人への共感や愛が欠けています。
「共感」があるから他人を対等と認識するのであって、単に感情の上で好きだから愛でるというのは、理性ある人間ではなく獣のレベルにあるということです。愛や共感は感情と共に理性の働きが必要であり「言いなりになる相手が居るから嬉しい」というものでは決してなく、相手の感情を共有し置かれた状況をも理解できるというのが「共感」であり、そういった相手を統合された全体として継続的に受容し理解するというのが「愛」ということになります。
こういったものが無いと、人の不幸は全くの他人事で、自分の利益のみ追求するようになります。
多くの日本人は立場の弱い者を奴隷のように使役し人身売買も公然と行っていました。窮乏すると自分の子供を売り飛ばしたり間引きする事も平気で行っていたのです。「後見草」では天命の大飢饉において子供の頭を割り脳味噌を食した事等が記されています。親殺しは大罪と見なされる一方で、現在でも心中未遂等における子殺しなどは相対的に軽い刑を言い渡されます。子供は言ってみれば親の所有物なのです。
女性の職業は「女工か女郎か」と言われていた時期がありました。昭和の初め頃は現在の価値にしておおよそ数万円程度で女中を雇うことができました(ただしこの頃は高所得者で無い限り収入がほぼ手取りになります)。運よく会社に勤められても「オフィスワイフ」という扱いです。また性風俗も盛んで、「カフェー」ではとてつもなく卑猥な行為が可能であり、金銭授与による交際も盛んでした。このような事に従事する女性は一生借金を返すこともままならず、こういった地方から流入する貧乏人の値打ちはとても軽いものした。
現代でも経済が困窮し格差が広がると女性を物のように扱う性産業(!?)が盛んになります。90年代後半あたりから若い女性の受け皿として様々な性風俗産業が発展しました。それは形態を変えながら今も続いています。電気街だった街は丸ごと性を売り物にする場所にさえなっています。文明国(?)でこれだけ大勢の女性が売春せざるを得ないというのは驚くべきことです。
日本の男性にとって女性は性の欲求を満たし子孫を残す道具でしかありません。そもそも彼らは「友情」という概念を持っているのかさえ疑問です。一緒に悪事を働いたり、ただつるんで楽しく過ごすだけの存在です。そんな彼らが女性をモノとしか見ないのは当然です。
性が不自然にタブーとなっている為、それが無くなった際に、例えば猿のように女性に大勢で群がる球児のような露骨な形となって表面に現れます。男性はいかに幾人もの女性を手篭めにし堕胎させたかというのを自慢します。男が女を人間と見なしていないのが明らかなので、女性も男性を金づるや、自らの欲求を満たす相手、愛玩物としての子供を得るための手段としてしか見ないようになります。
大勢の日本人は体系的なモラルを持っておらず、自己分析をする理性も無いので、単純な上辺の言葉で表面を誤魔化す一方で、自らの冷酷さや悪意を直視することができず、今日も ”他人くたばれ俺繁盛” のような身勝手な行為を続けているわけです。