kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

集団内で序列を作り、それに安住する人々

日本では集団が生まれると、直ぐに集団内で序列が出来ます。皆で誉めそやしながら、神輿を担ぎ、都合よく働いていくれる無能な者を一番上に置きます。真の実力者は陰にいます。そして末端まで続く奴隷達がいます。彼らは「パシリ」として走り回る事で集団に認めてもらえるのです。

 

仕事で問題が持ち上がり、皆が残業をすることになると、透かさず新人が「弁当を買ってきます! 何がいいですか」と立ち上がります。周りは「さすが、ウチの社員は優秀だ」と満足気に眺めています。

日本には「パシリ営業」とでも呼ぶべき技術者がいます。得意先にもぐりこんで、下働きとして無償の労働を提供し、契約を貰える日を待っているのです。営業手当ては出ず経費も落とせず自腹で頑張りますが、自社にも得意先にも身の置き所はありません。もはや自分の机すら無いのです。査定は最低で「仕事をとって来るまで帰ってくるな」という事なのです。

 

また、日本人は誰かを持ち上げて、利用するような所があります。過剰な称賛は侮蔑の裏返しです。

人々は、職人やボランティアを「神!」などと言って持て囃します。実は見下しているからこそ、そんな事が言えるのです。タダで自分の望みを叶えてくれる存在、それを彼らは「神」と呼ぶのです。年の初めに幾ばくかのカネを投げ込めば、自分勝手な願いを叶えてくれると思っているのと同じです。

都合の良いパシリや奴隷のようなものが「神」であり、言うだけならタダですから「ありがたや、ありがたや」と繰り返し、これからも自分の為に無償で働いてくれる事を期待します。肩書きだけ立派なものを与えて、その実、面倒な仕事をやらせているのです。

 

それでも日本人の多くは「何でもやりますから、私を見捨てないでください」というスタンスで集団にすがりつきます。空気を読んで強い者につけば得をすると考えています。教室では先生が誰を生贄にしようとしているのかを生徒達は素早く察知し、それを先取りするような事をします。

強者におもねる一方で、人々は都合のいい奴隷を求めています。「結婚は絶対に裏切らない友達(≒奴隷)を持つようなものだ」と言う人もいますが、パートナーが間違いを犯したら、それこそ何をしでかすか分かりません。

 

日本人は自分の集団以外は全て敵とみなします。その一方で、成員内には強い「絆」が生まれます。

以前、食堂に行った際、その日はたまたま混んでおり、周囲にトレイを持ったまま佇んでいる人が多く居ました。中央のテーブルに弁当箱を置いて雑談に興じている人々がいたのですが、突然、周囲を睨みながら「遅れてきたのが悪いのよ!」「そーよ、そーよ!」と大声で会話を始めました。これは日本人にとても良く見られる行動パターンのひとつです。

絶対的な基準や、異なる集団を対等に扱うシステムや考え方が存在しないために、どうしても集団毎のローカルルールで動き、集団は敵対し合うのです。

 

集団を離れたものは、もはや何をしてもいいサンドバッグと化します。口の軽い困った「関係者」が「死刑囚が毎夜失禁していた」という話を語りそれがニュースになります。最後に取って付けた様に「彼らも人間だった」と加えます。拘置所での年越し蕎麦は「カップ麺だ」と書いて惨めな被告を嘲笑いながらも、最後は「年越しそばの他、おせちも振舞われる」と美談のように書いて、彼らの真意を形ばかりに偽装します。

 

日本では素早く集団毎のローカルルールを学び、自分の分をわきまえて奴隷やパシリに徹することから始めなければなりません。その内、職場や家庭において自分の下にも奴隷が出来るので、それで鬱憤を晴らします。我慢し続ければ、何時の日か、何処かの役員になれるかもしれません。淡い夢を見ながら、今日も上に対して卑屈に身をかがめ、自分の奴隷をどやしつけて日々を送っているのです。

 

"先輩というものがある。そうして、その先輩というものは、「永遠に」私たちより偉いもののようである。彼らの、その、「先輩」というハンデキャップは、殆ど暴力と同じくらいに荒々しいものである。"

"私が少し上に登りかけると、極めて無雑作に、彼らの足もとの石ころを一つ蹴落(けおと)してよこす。たまったものではない。ぎゃっという醜態の悲鳴とともに、私は落下する。山の上の先輩たちは、どっと笑い、いや、笑うのはまだいいほうで、蹴落して知らぬふりして、マージャンの卓を囲んだりなどしているのである。"

太宰治「如是我聞」