日本はハイコンテクスト文化です。ビジネスでもそれを踏まえた行動が求められます。ところが多くの日本人にとってそれは難しいことなのです。このような人材を企業は求めていますが見つからないというのが現状なのです。
「ハイコンテクスト文化」は文化人類学者のエドワード・T・ホールによって提唱された概念です。情報が、言葉や明示的手段ではなく、主に暗黙の前提や文脈、曖昧な非言語的要素により伝えられる文化のことです。
日本は典型的なハイコンテクスト文化です。言葉で表現されるのは相手に伝えたい情報のほんの一部に過ぎません。それどころかしばしば真逆の表現をされる事も珍しくありません。これは日常生活だけでなく仕事の領域でも同じなのです。
職場でも重要な規則や手続きの多くが明文化されていません。教えられる事もありません。自ら学び取るのです。「分からない事があったら直ぐに訊け」と言われるのと同時に「何でもかんでも訊いてくるな」と言われます。その塩梅は自分で判断するのです。先輩や同僚との関係を良好に保ちながら、致命的な失敗を避け慎重に仕事を進めていく必要があります。それゆえに組織へ配属されてから、信用を勝ち取り、まともな仕事を任せられるようになるまでが非常に長いのです。
日本の学校教育方針は「言われた通りに手足を動かせ」「自分で考えるな」というものです。これは明治時代から続く軍隊式教育の伝統です。工場労働者と兵士の育成が目的だったのです。
ところが幹部候補として企業に入るとそれでは通用しません。ビジネスを成功させるためには①自分で考え、②それを他の人々に明確に伝達し、③人を動かすことが求められるのです。学校では教えられないことばかりです。どこで学んでいるのでしょうか? それは家庭であったり、学校の部活動であったり、日常生活でリーダーシップをとることにより身につけているのです。
日本では卒業した学校により期待される役割が異なります。早慶や旧帝大系は幹部候補です。MARCHクラスはその下で動く準幹部候補です。その他は兵隊となります。兵隊は言われた通り正確に手足を動かす事を期待されています。
慶應卒が重宝されるのは、親が裕福で社会的地位を備えている事が多く、血筋や環境により幹部社員候補として期待が出来るからです(もちろん可能性に過ぎません)。慶應幼稚舎から同質の環境で育っていけばハイコンテクスト文化でどのように動けば良いかを容易に学ぶ事が出来ます。
これに対してたとえば東京大学の場合は、中流下層階級出身者が含まれている可能性があります。成績が良くてもリーダーとして動けない人間がいるのです。
戦前のリーダーは旧制高校の3年で教養を身につけました。今の大学における教養教育にあたります。そして大学は専門教育の場でした。今の大学院に相当します。しかし戦後になり教育制度が一新されました。今の教育制度はレベルが下がっているだけでなくリーダーとして必要な教養を身につける場が不十分なのです。
戦後においても共通一次試験が施行される前の入試試験や二次試験では、必ずしも暗記が求められるものではなく、教養や思考力を求める場合がありました。それが暗記に偏った人間をふるい落とすフィルターとして作用していたのです。
現代では少々異なります。いかに過去問に精通しているかがフィルターとなっています。つまり義務教育以外の準備にどれほどお金を掛けられたかが問われるのです。学習に専念出来る安定した環境も子供に提供できなければなりません。貧困家庭では不可能なものです。
ただしこれは、彼の育った環境が良いものであり、最低限の学習能力を備えている事を保証するに過ぎません。思考力を問う為に入試で口頭試問を実施する学校はあまり無く、在っても形骸化しており合否を左右しません。
さて企業での活躍を期待されるのは全人格的に優れた人間です。そうでなければハイコンテクスト文化で仕事を進めていく事が出来ません。どんな分野でも何を任せても卒なく成果を出せる人間です。今も昔も日本ではジェネラリストを求めているのです。
先に述べた、企業で求められる要素に戻りましょう。日本では全てを文字にしません。資料にも残しません。小さな集団ごとに様々なルールがあり、互いに矛盾する事もあります。コミュニケーションも言葉足らずで必要な情報を明確に伝えられません。
幹部候補生には、これらを全て理解した上で情報を明文化し人々に伝える役割が期待されているのです。もちろんあえて文書化しない方が良い事もあります。それらを様々なチャンネルで人々に伝えます。メールやチャットなどの文書だけでなく、電話や対面でのコミュニケーションも必要です。いきなり核心を伝えるのではなく事前の段取りをして順序立てて伝える事も必要です。上司だけでなくキーマンや現場責任者も考慮に入れて最も効果的かつ効率的なルートと手段を選ばなければなりません。
情報を伝えるだけではありません。人々に動いて貰わなければなりません。口頭では淀み無くスラスラと説得力を持って説明できる能力が必須です。進捗が滞っていれば失礼にあたらないような手段ですかさずフォローをします。
そういった相手には言葉も上手く操れないような人々が多く居ます。自分が何を言っているのか本人も分かっていないような人間です。かといって細かく問い詰めては失礼になります。そうした人に対しては非言語的コミュニケーションも必要です。こうやって仕事を円滑かつ強力に推し進めて行くのです。
学校では「自分で考えるな」「自分で決めるな」と言われます。ところが企業では自分のポリシーを持って自分で決断しなければいけません。いくら関係者の合意を得ようと試みても、どこかで腹を括って決断しなければならないのです。失敗したらその責任は自分でとらなければいけません(誰かに擦り付けるのが上手い人もいます)。
要するに自分で考え、それを様々な手段で人々に伝え、その通りに動いて貰わないといけないのです。相手は、言われた通りに手足を動かせば良いと思っている人々です。中には「自分で考えて動ける人間だ」と勘違いしている人もいます。こういった人々の手綱を握ってどう動かすかが腕の見せ所なのです。上手く行けば彼らは同じ方向を向いて動き出します。まるで電圧をかけると一斉に同じ方向へ整列する液晶分子のようです。
このような重要なポジションに何かの間違いで「言われた通りに動けば良い」と考えている人間が任命されてしまう事があります。そうなると本人は「何を求められているのか分からない」「何をやっても上手く行かない」と思い悩む事になります。地位の低い状態であれば大事に至る前にこういった人間は排除されます。ところが既にかなりの地位にあり周りの人間が何も言えず排除することも出来ない場合があります。
これは途方もない悲劇を組織にもたらします。直ぐには是正出来ないので悲劇が持続します。たとえば東条英機がその典型例です。本人には悪意がありませんでした(そもそも日米交渉が行き詰まった時に首相を引き受けた時点で、馬鹿かお人好しかのどちらかかと言えます)。彼はただ大勢の人の意を汲んで最善の選択をしたかったのです。そして最後は外国人の手で縛り首となりました。恥ずべき死に様ですがそれにより漸く日本の暴走が完全に止まったのです。「無能な働き者」はこれほど迄に恐ろしい存在なのです。
日本のようなハイコンテクスト文化の国において仕事を進めていくには非凡な能力が必要です。昔の高度成長期のように、決められた方向に向かって定まった努力をすればいい時代は未だ良かったのです。たまたま方向性が時代に合っており日本は成功しました。
ところが今のように不確実で曖昧な世界では、自分で予想を立て素早く行動しなければいけません。それを組織単位でやるのです。
外国人のような「外様」であれば強権を持って組織を動かす事が出来ます。しかし彼等も風向きが変われば追い出されます。場合によっては逮捕されます。日本人であればそもそも強権を持って動かそうとしても直ぐに叩き潰され生き残る事が出来ません。
昔のようにひとつの方向に向かってひたすら手足を動かす日本人はもはや必要とされていません。しかし多くの日本人は軍隊式教育に最適化された人々なのです。ここに企業が求めている人材と実際とのギャップが生まれます。
これに対してなんでも明文化され分かりやすい視覚的なチャネルで情報が伝達される社会は「ローコンテクスト文化」です。最底辺の人間でも生きやすい社会です。コミュニケーションに齟齬がなく組織は素早く動く事ができます。
さらに日本では文化だけでなく日本語自体に大きな欠陥があります。同音異義語が多く口頭だけでは混同する場合があります。生成AIによる議事録も未だに間違いだらけです。Wordにおける日本語入力システムでも正しい漢字を求めて何回も変換キーを押さなければなりません。情報システムでさえこれなのですから頭の弱い日本人が口頭で日本語を正しく理解しているとは思えません。
漢字については多くの国が使用を止めたり簡体字に移行したりしています。ところが日本では昔の漢字がそのまま使われています。頭が悪いのに必死にそれらの漢字を覚えようとします。漢字の読み方は様々です。文脈や場合によって異なります。統一化されたルールはありません。それまでの経緯でたまたまそのような読み方になっただけです。思考停止の状態で無条件にそれらを暗記するのです。
中学までの作文教育のように伝える内容は重要視されていません。それなのに漢字を覚えて厳密に使う事を期待されています。ちなみにこれは英語やプログラミング言語の教育でも同じです。頭の中が空っぽで何も伝える内容が無いのに、伝達手段だけを重視しているのです。日本人はただの伝書鳩です。
日本語は語順が自由です。しかし語順によって文意に僅かな違いが生まれます。助詞の選択にも自由がありますが、こちらも同様にニュアンスが異なって来ます。
また日本語は極めて詩的な言語です。音にした時の響きの良さを重視します。相手にどれほど優しく伝わるかという点も重要です。メールを書く際もどのような順序でどのような分を配置するかが重要です。ただ要点を伝えれば良いというものではありません。散文でなくても時折詩的な表現を交える事があります。その誘惑に抗う事はほとんど不可能です。
このような日本語の特徴と、正しい情報の伝達とは相反します。官公庁のパワーポイント資料を見ると様々な色が醜く混在し細かい注意書きで溢れています。
万が一にも情報伝達で齟齬が無いように、必要なものを加えて行った結果です。レビューを繰り返す度に情報量が増えていきます。最終的には何がポイントなのかが全然わからない資料が出来上がります。結局情報は正しく伝達されません。けれども認識齟齬が発生した際には「ここに書いてあります」と言うことが出来るのです。
日本語という非効率な伝達手段と日本文化という特殊な環境に在って正しく情報を伝えようとすると多大な労力が必要とされるのです。
このような国では、単純なメッセージを繰り返す指導者は、国民の人気を得る事が出来ます。逆に複雑な概念を言葉を尽くし伝えようとする人は嫌われます。人々はわかりやすい人間を求めています。日本でお笑い芸人が好かれ尊敬されているのも道理です。
更にその指導者が「周りの人達の言う通りに動けば良い」と考えている人間ならまだしも「自分で考え判断出来る」と勘違いしている未熟な人間だったらどうでしょうか。徹夜を繰り返しても正常な判断力を維持出来る超人だと考えていたらどうでしょうか。大変な悲劇が再び日本を見舞うことが予想されます。
多くの日本人は言葉をよく理解する事が出来ず、感情で動く人達です。学歴があるとされる人も一皮むけば同じです。
つまり日本人は人類が進化のうえで獲得した言語を、上手く利用する事が出来ていません。動物と同じです。だから最後は本能や感情で動かざるを得ないのです。
これが歴史上、日本に多くの悲劇をもたらした要素のひとつなのです。