kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

高卒レベルの日本人 ‐差別を維持する為の教育システム‐

日本は低学歴で知られている国です。新入社員はほとんどが学士です。学士とはいっても、大学で勉強をしていないので中身は高卒と同じです。実のところ、表面的で中身の無い教育は日本のシステムを維持するためにあるのです。

 

日本は世界と異なり修士や博士という学歴に重きを置いていません。才能ある若者を評して「末は博士か大臣か」と言ったのは明治時代初期までの話です。もし現在「あの人はPh.D.をお持ちなんですよ」と言われたら、一般人は「へぇー、それでどこにお勤めなんですか?」と訊き返すことでしょう。下手をすると何をしているのか分からない奇人変人と思われかねません。高学歴が風俗嬢になったりヒモになったりするのは、日本だけでしょう。

 

日本では、大学院に進むのは「日本の社会の仕組み」を学べなかった愚か者であり落ちこぼれです。日本でも世界に合わせて修士や博士に進めるプロセスが整っていますが、それはあくまで表面的な話です。日本では当然ながら学校名が大事です。有名大学を出て学卒で有名企業や官公庁に入るのがエリートです。外務省のように大学を中退して入省する場合もありました。必要であれば、そこから国や会社のカネで修士や博士をとり箔を付けるのです。

 

日本では序列が必要です。日本人は他人を値踏みする人々です。対象を客観化できず常に自分の身をそこに投影して「上か下か」を感情的に判断する人達です。彼らは他人を評価する基準を必要としています。というのも序列が明確でないと、他人とどう接していいのか分からないからです。そのためにあらゆるものが序列化されています。これは彼らにとって客観的事実に近いものです。

 

高校時代に同じクラスの女性が「一次試験の結果が少し悪かったので東大ではなくて京大にしようと思います」とサバサバした表情で担任に話していました。ショックだったでしょうが、どうすべきか悩む必要はありません。京大に行けばいいのです。

東大と京大では、場所も違えば、校風もかなり異なります。目指しているものも違います。それなのに序列に従い「1番が駄目なら2番目」と考えてしまうのが日本人です。「入りやすいから理2を受けよう」「今年の倍率が低くなりそうな大学にしよう」と考える人もいます。自分の成績に応じて効率的に出来るだけ高い序列を目指そうとするのです。

上に挙げた女生徒とは異なり、筑波大学には落ちましたが早稲田の政経に合格した知人は終始にこやかでした。大学ブランドでは早稲田のほうが序列は上だからです。

何を学ぶのかは全く重要ではなく、序列の高い大学に入るのが最終的な目的と化しているのです。

 

「社会に出れば学歴ではなくて実力の世界」と言われます。しかしやはり大企業では学歴がものを言います。一般的に金融系なら東大、京大、一橋、早慶でないと上に昇って行くのは困難です。大学が同じであれば有名高出身者が有利です。会社間のざっくばらんな付き合いで学校名を名乗るのは当たり前なので、格下と看做されている大学名ではバツの悪い思いをすることになります。そもそも私立は早慶しか採用しない会社も多くあります。

 

ちなみに有名大学出身ではあっても、日本での学者の立場はなんと低いことでしょう。見かけの地位は高いことになっていますが、それは官公庁や民間に認められたからです。体制に楯突くような学者は地位を得られません。学者は役人にアゴで使われるだけではありません。民間の研究所に在籍するMARCHクラスの研究員に使われて謝礼を貰うような立場なのです。学者が官公庁や民間のトップになるのは不可能ですが、役人や会社員が学者になるのは遥かに簡単です。

 

このように、社会的地位が高く有名校出身のブランドを持っていることが、日本では重要です。もちろん日本の大学ブランドなどは世界で通用しません。でも日本ではそれが大変な力を持つのです。役人になれば匿名性を維持したまま大きな権力を手にすることができます。無謬でありかつ無責任でいられます。老後も安泰です。誰からも頭を下げられます。

 

日本では役人に法学部出身者が占める割合が多かったことも問題でした。日本の法学というのは要するに権力者のための実学です。民を抽象化して、それらを「どのような仕組みで効率的に治めるか」という実学です。人々を血の通った生きた人間として眺めることはありません。「よらしむべし知らしむべからず 」という江戸時代の儒教的価値観と大差ないのです。法学部を目指す人間というのはこういうものです。

法曹界でも司法修習で成績が良かったものは検事として採用され、愚直に言われた事に従う者は判事として採用されます。その他どうでもいい大勢は弁護士となります。

 

民を統べる仕組みは大切です。体制側から見れば、日本人というのは「手や足を動かしたくない。何なら頭も動かしたくない」という怠け者です。そういった連中を統率し上手く動かす仕組みが必要なのです。

だから日本では、人々が考える必要がないように、序列や多数決、「空気」が重要視されます。人々は序列に従い上の者を崇め奉り、下のものを蔑みます。上の者に褒められると天にも昇る気持ちです。子供も「空気」を読み、多勢に従うことでこれらの序列を内面化していきます。こうして一人前の日本人が誕生します。

 

日本人というのは即物的な人間です。眼の前にぶら下げられた人参しか目に入りません。多くの人々は有名大学に入ることが目的化しています。そこから何をしようという志がありません。

日本の社会は「序列が高い大学に入れる人間であれば、何でもこなせる」という前提に立っています。教育は人材選別の手段でしかありません。教育によって人を陶冶するという考えがないのです。つまり「優れた人材は生まれつき優れていたのであり、教育などはむしろ邪魔なものだ」という考えです。教育を受け「資格を取得してスキルアップ」などというのは下々の人間がやることです。

役所だけでなく普通の企業においても、高等教育などはむしろ弊害だという考えが長く続きました。有名大学に入った真っ更な状態の学生を、自分の会社のカラーに染め上げていくのです。

 

ただし日本ではトップ企業であればあるほど自由です。たとえば総合商社ではその年のもっとも優れた人材が集まる傾向にあります。入ればかなり自由に仕事を任せてもらえます。彼らは自発的に学び成長し会社に貢献してくれます。コストのかかる研修制度が整っていますが、組織が人に教育を施すという感じではありません。もちろん怠けることだって出来ます。


日本人は勤勉で教育熱心だと言われていましたが、実態はまったく違います。上の例のように、結局は個人の精神力や頑張りが頼みです。システム化や組織化がなされていません。そもそも西洋から来た学問なんて誰も重要視していないのです。実学にあたる部分がカネになるから受け入れているだけです。

電機や化学、工学、ITといった分野では西洋由来の知識は必須です。しかし日本では理系の人材というのはランクが下がります。給与は低く拘束時間も長めです。つまり理系の学問をおさめてそれを実際に活用している技術者や研究者は下賤の民と見られているのです。実際、冴えない服や作業服、汚れた白衣に身を包んでいます。

一方でエリートを生み出すはずの文系教育過程では大したことを教えていません。法学、政治、経済、経営といったものです。マンモス大学では卒論が無いところさえあります。結局のところそれらは実学であり、実際にやってみなければ分からないという側面があるからです。社会学や人文系の学問に至っては、女性や酔狂者の為の学問と思われています。

 

こうして今日も日本は、高卒レベルの人材が有徳の士として迎えられて国や企業の将来を担うことになるのです。

 

教育は大切です。人間というのは、気をつけないと容易に暗黒時代の野人へと戻ってしまいます。人間の脳は数十万年前と大差ないのです。そうした人間を文明人へと変えるのが教育なのです。国を興隆させ成長させるのも教育の力です。

しかしながら日本人は未だに教育を、小手先の技術習得や、人材選別の道具としてしか考えていないのです。これでは国の未来が無いのも当然です。

けれども日本の社会を維持するには、人々は暗愚のままに捨て置いた方が良いのです。上は何をやっても許されるが、下は何をやっても決して許されない社会です。上にとってはユートピア、下にとってはディストピアです。

 

なぜ日本の教育はこのようになってしまったのでしょうか?

日本というのは「差別」が前提となっている社会です。「人間には貴賤がある」という事です。社会構造がそうなっていますし、日本人の価値観にも気持ちよく合致します。歴史を振り返れば明らかです。人々は常に「上か下か」と他人を値踏みします。そうしてその差別がまるで存在しないかのように振る舞います。見かけの序列と本当の序列は異なります。これらの原則を忘れてはいけません。

この「差別」を固定化するために「学問」や「教育」というのはまことに都合の良い道具だったのです。日本の教育や学問というのは、実にこの「差別」を根底とした社会を維持強化するためにあるのです。それらは本当の学問や教育とは異なる換骨奪胎のまがいものです。

 

こういった社会が行き着く先は、誰でも容易に想像がつくことでしょう。日本は低学歴の国であり、尚且つ奇妙な価値観に囚われたカルト集団です。意思疎通が不可能な人々です。日本は急速に他の世界とは全く異なる国と化しつつあります。

そして遂には、鎖国をするか、あるいは世界に無謀な戦いを挑むかのどちらかになるしかないのです。

「空気」の研究 (文春文庫)

高学歴難民 (講談社現代新書)