日本人は無能です。どんな仕事にも通用するやり方を身に着けているのでもなく、専門的なスキルもありません。彼らはいったい何ができるのでしょうか。
本来ならば、大企業がスペシャリストを抱えているものなのです。反対に弱小企業では、専門家を雇う余裕がないため、何でもこなすジェネラリストばかりとならざるを得ません。
ところが日本では逆なのです。官庁や大企業では高給を得るジェネラリストが大勢います。業務に特化した従業員は、給与が低かったり、業務自体が外注だったりします。外注された企業は、さらに小さな会社のスペシャリストに頼ります。けれども、ろくな給料も払えないような弱小企業に、質の良いスペシャリストが存在するわけがありません。
能力は低いが、人が居ないので何でもこなさないといけない。素人に近いので給料も低い。それがジェネラリストです。高度な知識と能力を備えた専門家は、養成するのにコストがかかっていますから高給です。低い能力しかない専門家というのは、存在自体が矛盾しています。反対に、能力の高いジェネラリストは滅多にいません。それを求めるのは、スーパーマンを探すようなものです。
日本では、出身校を聞けば、どの程度の人間であるのかが直ぐに分かるようになっています。偏差値によって見事に人々が輪切りにされています。
日本には人格的に陶冶された人間がいません。ですから人を測るには学力しかありません。学力が高くても、本当に基礎能力が高いのか、単に試験勉強に特化した能力なのかは不明です。けれども「環境に順応しやすい人間だろう」という推測はつきます。
そういった学生を囲い込み、カネをかけて無能なジェネラリストを育てています。考えても見てください。何をやらせても上手くできる「なんでも屋」がそこかしこに転がっている訳がありません。ほとんどは役立たずにしかならないのです。しかしそんな連中であっても、「スペシャリスト」にだったら成れるかもしれないのです。
彼らは数年で部署を転々とさせられます。前任者の申し送り事項を尊重しながら、そこに新しいものを付け加えて、さらに跡を濁さずに異動するのはなかなかに難しいことです。多くの人間は、与えられた期間を失敗しないように過ごすだけとなります。
明治時代において為政者は、欧米に追いつこうと試みました。そのために能力のありそうな若者に多額の投資をして、欧米の学問を身に着けさせたのです。彼らは重要なポジションを転々として、人々を指導しました。彼らに国の命運を賭けるしかなかったのです。
明治政府は、すべての人間のレベルを高めることは目的としませんでした。あくまでその場しのぎの教育システムであり、人材登用のシステムだったのです。「富国強兵」の名の通りに、大量の兵隊を使って「国」を富ませるというものです。個人の人権などはどうでも良かったのです。有能な人間かどうかは「国家の役に立つかどうか」で決まりました。そのために、人間を早い段階で見定める必要があったのです。即席栽培のエリートが必要だったのです。
こういった価値観は個々人にも浸透していきました。いったいに日本人は、人を見切るのが早い傾向があります。潜在的な可能性を考えてみようともしません。人生の一時期における試験で、将来を決めてしまうのです。運良く地位を得たとしても、一度失敗すれば終わりです。
「日本人は就職ではなく就社をするのだ」とよく言われます。本来ならば、入社をする前に、雇用契約によって、どこで何をするのかが明確に定められるべきです。
ところが日本で行われているのは人身売買と同じなのです。いったん雇用されると、どこで何をやるかは人事の意向次第です。かといって簡単に辞めることもできません。
企業に欠員が出たら、代わりとなる優秀な人材を外部から補充します。これが雇用の流動性が確保されている状態です。ところが日本には、在野に優秀な人間などは存在しないのです。「優秀な人間」は新卒採用時に役所や大企業に吸い上げられてしまいます。そして彼らを「なんでも屋」にするのです。彼らは経営者ですらありません。言ってみれば、その会社に精通した万事屋です。
一方で専門家は、勝手に生えてくる雑草のようなものです。使い潰しても、いくらでも代わりが見つかると思われています。
日本が求めているスペシャリストとは、特定の業務に慣れているというだけの人々です。単に工作機械の操作に慣れている労働者と同じことです。10年も経てば淘汰されてしまうような存在です。低い給料でひたすら搾取されるだけの人々です。
彼らは単に言われたことを、とことんまで突き詰めるだけの人です。眼の前に差し出された課題を解決するのに夢中で、それが何の役に立つのかを考えてみようとしません。例えば、役所のエクセル方眼紙を見てください。あるいは無駄に多機能を誇る使いにくい家電です。あれが日本人のスペシャリストの仕事というわけです。
多大な労力が込められているのは分かります。しかしそれが交換価値に全くつながっていないというのが日本の特徴です。
日本では、エリート教育と兵隊教育が混在しており、どちらも成功していません。大学教育は何の役にも立っていないと企業人からそしりを受けています。奴隷教育の中から這い上がってきた要領の良い連中を、日本では「優秀」と称しているのです。
いくら試験制度を変えてみたところで、日本の受験生は表面的な勉強しかしません。
英語教育を何年も受けているのに、実際に使えるようになりません。彼らはいったいどういうつもりで勉強をしているのでしょうか。もちろん試験でいい成績をとる為だけにです。彼らは本質を掴むことができない人たちです。人生の意味について考えたことも無い人々です。
日本人はいつも見かけだけを大事にします。仕事でも相手をうまく丸め込むような「説得力」や「コミュニケーション能力」があることが大事です。事の良し悪しなどは関係ありません。詐欺師と良く似ています。それっぽいこと、もっともらしい事を言えることが大切です。
もちろん、このような教育や社会でも、本当に優れた人たちは一定の確率で存在します。その中には大志を抱いている人も少しはいるでしょう。しかし日本では、報酬を得られるのは老人になってからです。カネだけではなく、仕事上でもです。若輩者はどんなに優秀であっても下働きから始めなければなりません。これではモチベーションが湧きません。
また日本では、信じられないようなレベルの人間が重要な地位について、重要な決定をしていることがあります。自身の無能ぶりを恥じるようなタイプではなく、そもそも無能さに気づくことがないのです。周りが手厚く支えてくれるからです。そして数年で異動していきます。そのために、数年毎に同じような検討が繰り返されます。「いったい何十年検討を続けているのか」というプロジェクトがあります。
日本は、徴税人やカネ勘定をしているような人々が敬われてしまう社会です。素人会計士が国の行末を決めているようなものです。しかもそれに輪をかけて無責任な連中です。給付金を間違って振り込んだら、振り込まれた方を悪者に仕立て上げるような人たちです。
かといって多くの日本人は、自分では何も決められません。何でも上にお伺いを立てるような人々です。子供と同じです。
無能なリーダーのもとでは、いくら仕事ができる人々を揃えても無駄です。指導者のレベルを決して超えられないからです。無能な管理者が日本を駄目にしています。
民間企業はあいも変わらず安物の薄利多売で儲けようとしています。パンデミックや戦争で資源の価格が上がると、安物の利益はあっという間に吹き飛んでしまいます。右往左往をしながら国に泣きつきます。
人を変えるには教育しかありません。ひょっとすると昔の教育、例えば江戸時代の教育の方が優れていたのでしょうか。そんな事はありません。ただし現代は情報が多すぎるので、何が大事なのかを良く見極めなければならないのです。そうでないと、じっくり物事の本質を考えている暇がなくなるのです。
もし昔の日本の教育で役に立ったものがあるとすれば、それは漢籍の素読でしょうか。声に出して読むことで、音声と視覚的な記号、そしてイメージが結びつきます。仮に日本人から漢字を奪ったら何が残るでしょうか。抽象的な思考が全く不可能になることでしょう。現代の教育における数学の重要性も、記号と抽象的イメージの結びつきにあります。
表面的な知識や浅薄な技術ではなく、深い理解を持った人間を養成すること。日本的なシステムを作り変えること。そして真に優れた人間を登用すること。こういった事をしなければならないのです。
しかるに現在の日本では、三流官庁が教育内容を決めています。国民はと言えば、先進諸国の中でもとりわけ学力の低い人達なのです。これではお先真っ暗です。
単純に、能力のある人間が統治をすれば良いというものではありません。求められる能力も変わってきています。けれども日本は旧態然のままです。システムも人間もガラパゴス化しています。
そもそも「ベスト・アンド・ブライテスト」が役人を目指すなんておかしな話ではありませんか。人の流動性が悪い小さな島国では、容易に因習や奇習がはびこります。
絶えず新しい血を受け入れ、自らを変えていかなければなりません。自らの無謬性を信じ、ヒト、モノ、カネを全て支配しようとする組織に未来はないのです。
高い地位に、しかたなくしがみついている人達も多いのだ。というのも彼らは、そこから降りようとすれば、転落する他はないからである。
常に自分の出世の上限を決めておくことだ。(中略)自分から辞めるのだ。(中略)賢者は運命を恐れる理由などない。(中略)返却を求められれば、文句も言わずに返すことであろう。(中略)良い死に方を知らぬものは、みな悪い生き方をするだろう。
「こんなことが起きるなんて思いもしなかった」「こんなことになるなんて信じられますか」ーもちろん信じられる。どれほどの富であっても、その背後には貧困と空腹と物乞いが付き従っているではないか。(中略)どれほどの王権でも、崩壊と蹂躙と新たな君主と処刑人が待ち受けているではないか。
セネカ『心の安定について』