日本は衰退の一途を辿っています。成長率は先進国のなかでも最低です。もはや先進国ですらありません。日本人はどこで道を間違えたのでしょうか。そしてその原因は何なのでしょうか。
現代の資本主義のシステムはアングロ・サクソンによって作られました。その根本にはキリスト教、特にピューリタンの考えが基礎としてあります。彼らの宗教がもたらす内面的な規律によって、勤勉な労働者や、利益追求と同時に社会的還元を目的とする資本家が生まれたのです。貪欲さではなく禁欲から生まれたのが資本主義のシステムなのです。
正直さ、真理の追求、公正、信用、禁欲、勤勉といった価値が尊ばれました。ルターの宗教改革を契機として、死んだ後ではなく、勤勉に働くことによって現世でも報われるという考えが浸透していったのです。厳しい道徳と現世的利益の追求が結びついたのです。
個々人の営利活動が、ひいては神の栄光を示すことになります。個別最適化と全体最適化の一致を目指して人々は動きます。自分の資質や資産は神からの預かりものです。それを活かして資産を増やす行為は聖書に書かれている事と矛盾しないのです。倹約、貯蓄、投資、社会貢献、すべてが神を中心にして繋がります。
キリスト教には「天職」(calling)という概念がありました。選ばれた者であり、救われることが予定されているという確信を持って役割を全うすることにより、自分の使命を果たせるという考えです。
「全知全能」になりたいというのが、絶対神を持つ民族の潜在的な願望です。絶えざる成長と改善を続け、獣や他民族を従えて、この地を支配するという目的が根底にあります。常に世界的視点でものを考えています。それを理解できない人々や民族を啓蒙し、場合によっては彼らを支配し駆逐するのです。アングロ・サクソンの本能的とも言える考え方とキリスト教の教えが合致したのです。
他民族から見ると鼻持ちならないエリート意識や傲慢さと見られるかもしれませんが、決して悪意ではないのです。
その点が日本のエリートとは全く違うところです。日本ではただ単に上位の階層に居るからエリートであると考えるのです。無条件に偉いのだから「どれだけ傲慢に振る舞ってもいい」「我欲を通しても良い」という考えです。中身はネトウヨと大差のない人間が大勢います。一般人も「偉い人を知っている」「支配層に寄り添っている」というだけで、同じように傲慢に振る舞ってしまうのです。
江戸時代末期の日本では、教育のある人の中に儒教的道徳心を持っていた人がいたかもしれません。けれども明治維新以降の多勢は「俺たちより軍事的に優れてる西洋に追いついて見返してやりたい」という動機で行動していたことでしょう。自分より体格がよく良い暮らしをしており、巨大な蒸気船、圧倒的なアームストロング砲、元込め式の銃などで武装した西洋人と比べて、自分たちが惨めでしかたなかったのです。しかし日本人がやった事といえば、表面だけの物真似であり、内側には何の思想も持っていませんでした。
彼らは、自分たちが西洋に伍する強い国となってアジアの覇者となることだけを考えていたのです。彼らは「上か下か」という動物的本能で動きます。すべては序列で決まるのですから白人様には頭があがりません。その代わりに侵略したアジアの国の人々にはどんなに酷いことをしても許されると考えます。自分がそれまで惨めだった分、誰かに仕返しをしなければなりません。このような一連の行動を、急拵えの神道や神話、スローガンで正当化し称揚していました。
太平洋戦争で敗戦した後は、それまで威勢のいい事を言っていた知識人も、途端に怨念めいた繰り言を吐くようになります。まさか勝ち組である白人の悪口を言うわけにはいきません。日本では勝ったものが常に正義なのです。その代わりに戦時下の軍部や政治家、あるいはイデオロギーを持つ人々へと攻撃の矛先は向かいます。戦前も戦後も、国レベルの自己憐憫と被害妄想で動いていたのが日本という国だったのです。本当にそれだけだったのです。
彼らは蛮行を非難されると、自分のせいだとは考えずに、必ず他人のせいにします。想像力の欠如と低い自尊心から来る歪んだ被害者意識によるものです。だから失敗から学んで成長することができません。表面的な技術を猿真似することはできても、肝心の中身は幼児のままなのです。
資本主義のシステムは世界に浸透しました。そのほとんどは、もはやキリスト教に由来する内面的規律を持っていません。アングロサクソンの国々でも、資本主義は「生きているうちにどれだけ点数を稼げるか」というゲームになっています。確かに資本主義にはゲームのような面白さがあり、気をつけないと老若男女ともにこれに絡め取られてしまいます。意味もわからずゲームに参加し夢中になっている人々がいます。一方でこのゲームから降りて「引き籠もり」や隠者のようになってしまう人もいます。
資本主義はそれ自体が宗教のようなものです。独自の価値体系を備えています。人間は成長を望み、成長と消費に伴って資本の蓄積も増えていくという信仰です。株価も長期的には右肩上がりになると信じられています。30年以上経ってもバブル期の株価を超えることの出来ない日本は、さしずめ、その信仰と資本主義システムが崩壊しつつあるといえるでしょう。
信念に支えられ勤勉に働く自由人と、強いられて嫌々働く奴隷とはまったく違います。労働にはモチベーションが必要です。内面的動機によって自律的に働くのと、周りを見ながら働くのは異なるということです。際限なく強制的に労働者を働かせてしまうと、長期的には全体の労働力が低下してしまいます。自明な話です。それなのに其処此処でそれが起きてしまっているのが日本なのです。未来を考えず、成長と進歩を望んでいない国が発展するわけがありません。いくら表面的な製造技術や金融手法を学んでも無駄なのです。
宗教を持たない民族は、自律的な思考力を得るのが難しいのです。彼らは絶対神や絶対的な軸を頭の中に思い浮かべることができません。宗教というのは抽象的な価値体系であり、それを念頭に置いて行動することにより、人間の能力を最大限に発揮できます。宗教が無ければ、義務教育で習う学問に何らかの価値体系を見出すしかありません。けれども日本のような暗記が主体の教育システムで、そんな事が果たして可能でしょうか。学問の道に進みたいと少しでも考える人がどれだけいるでしょうか。
産業革命を経て大量生産の時代となり、モノが増えることが幸福や力の増大を意味する時期がしばらく続きました。二度の世界大戦を経た結果、新しいシステムを求めイデオロギーが対立する時代となりました。しかし共産主義国家という壮大な実験が失敗し、人々はまた資本主義と向き合う事になったのです。けれどもコンピュータやインターネットの発達によって、今まで見たことのない製品やサービスが生まれ、再び人々を魅了するようになりました。情報やアイデアがお金になる時代になったのです。人工知能は大きな可能性を秘めており、これまでの人間の在り方や働き方を一変させることになりそうです。
資本主義がずっと続くとは思えませんが、この先数十年で崩壊してしまう事も考えられません。それでも、投機的市場や国の誤った政策で景気が左右されるような状況は、少しづつ改善されていくでしょう。
そして目的を失いつつある人々のために、新しい内面的規律や指針が必要となります。新しい道徳です。しかしその必要性に決して気づかない国と人々がいます。言うまでもなく日本と日本人です。彼らは常に外面だけを見て、本質を見抜くことが出来ない人達です。新しい世界システムが到来する時代でも、彼らは負けることが約束されているのです。