日本は学閥社会です。「どの学校を出たのか」という経歴が死ぬまで付いて回るのです。この慣習はこれからも変わらないのでしょうか。
日本では学歴は重要ではありません。学閥が重要なのです。つまり修士や博士などといった学位は日本では全く意味を持ちません。その代わりに「東大なのか」「早慶なのか」といったブランドの方が大事なのです。たとえ学士号を持っていなくともそれらのブランド校を中退したのであれば「優秀な人物」とみなされるのです。
日本では大学や学部毎に細かく序列が付けられています。共通一次試験が登場し偏差値で正確な順位が測られる様になってからこの傾向が強まりました。その順位は安定しています。たとえば京大や東北大が東大より上位に位置するという事は未来永劫あり得ないのです。つまり大学の環境や教員レベル、研究内容や論文の数などは全く序列に影響を及ぼさないのです。
人間の序列は18歳の時に受けた大学入試の結果によって決まります。それが一生を左右します。出世でも学閥は重要です。人事部には「どの大学のどのゼミに所属していたか」「指導教官は誰であったか」「高校はどこを出たか」等が細かく記録されています。それが昇進に影響するのです。こうして引退後に貰える年金額までが学閥によって定まってしまうのです。
大手都市銀行でも特定の大学を卒業した人事部出身者が大きな影響力を持っている場合があります。他銀行と合併しても影響力はそのままです。さらに銀行から他の会社のCFOへと落下傘降下することも可能です。ゆくゆくはその会社の社長となります。こうして植民地を増やして行くのです。学閥の緊密で力強いネットワークにより社会全体への影響力を強めて行くわけです。
就職希望者を大学名で篩いにかける行為はある程度やむを得ないといえます。それ以外に能力を測りようがないからです。「足切り」という意味もあります。しかし大学名が何時までも影響力を持つというのが日本の特徴です。二流・三流大学出身者と看做されると挽回するチャンスは無くなってしまうのです。
日本において「修士や博士といった学位に価値が無い」という事実は至るところに現れています。たとえ入社時の給与が僅かに高くとも数年を大学院で無駄に過ごしたという履歴はその後の人生で不利に働きます。もしも学究を目的とするならばやがては乞食と同じような生活が待っています。
また日本で外交官を目指す者は試験に合格すると大学を中退して外務省へ入省するのが習わしでした。つまり入学後の「教育」「勉学」に意味は無いとされていたのです。ある程度の教養があれば十分であり、むしろ大学で専門的な教育を受ける事のほうが好ましくないと考えられていたのです。
日本の「大学」は世界の標準とは異なりリベラルアーツを身につける場ではなく専門教育を受ける場です。大学で教養を身に着けたあとに、大学院で医学や法学を学ぶというのがスタンダードです。ところが日本ではいきなり大学で医学や法学といった専門課程へと進むのです。
昔からこのような姿であった訳ではありません。現在の日本の教育制度は6-3-3-4制です。しかし第2次世界大戦以前は6-5-3-3制だったのです。旧制中学が5年、旧制高校が3年です。旧制高校は今の大学レベルであり、そこで教養を学んだ後に大学で高度に専門的な教育を3年間受けるという仕組みだったのです。
ところが戦後になると大学が、教養課程と専門課程が接ぎ木された歪なものになってしまったのです。教養課程は実質1年、専門課程も実質2年しかなく不十分です。しかも大学最後の1年は主に就職活動に勤しむ事となります。先の外交官の例のように「こんなものは大学ではない」と考えていた人が相当数いただろう事は想像に難くありません。日本の大学や大学院は茶番もいいところです。日本が衰退したのも当たり前です。
現代の高校も昔の旧制中学に相当するような基礎的な学力を身につける場に過ぎません。確かに科学技術の進歩に伴い昔と比べて教えられる内容は大分違っては来ています。しかしリベラルアーツに関わる分野は今も昔も変わらないのです。戦後の教育改革によりそういったものを学ぶ時間がすっぽりと抜け落ちてしまったのです。
現代の日本人は「何のために学ぶのか」「どのような学び方をしたらよいか」を自分で考えて仲間とともに切磋琢磨する場所がありません。
その代わりにやっているのは受験の為の知識やテクニックを身につけることです。昔は今ほど教材が十分ではありませでんしたから、どのような勉強をすれば良いかを自分で考えて準備する必要がありました。それ故に広い範囲をきちんと理解しながら学ぶ事が必要だったのです。
ところが現在は情報や教材が溢れています。コスパやタイパが重視される時代です。試験に出る箇所だけを効率的に学ぶのです。歴史で第2次世界大戦後が出ないと分かっているのなら、教科書には載っていても読むことさえしません。
そうして念願の大学へと入ります。どころが大学在籍時の成績というのはそれ程重要視されません。Aの数は特に評価されず人事部にもデータがありません。留年さえしなければ良いのです。「オールAだった」とか「卒業時に総代だった」等は何かの折に出る逸話の域を出ません。芸能人に転身した後の箔付けに役立つくらいです。
日本の教育は自由がなく画一化されておりリベラルアーツとは遠く隔たっています。確かに出来の悪い庶民を一人前の労働者にする為には洗脳と体罰が必要です。けれども日本ではそれが全ての人に対して行われているのです。大学ですら「考える場」ではなく「馬鹿となる場」なのです。
いっぽうで権力者としての将来が約束された者には学歴も学閥も不要です。日本の過去の総理大臣で大した大学を出ていない方もいますが、あれが本当の貴族であり支配者なのです。もちろん大して勉強しなくてもそれなりの大学に行けるのなら行っても構いません。しかし彼らにとってわざわざ努力や勉学を重ねて受験に臨むというのは人生の無駄に過ぎないのです。むしろ考え方の枠が固定されてしまう弊害の方が遥かに問題です。権力者にとっては、労働者のために用意された長い洗脳教育を避ける事が大事なのです。「学歴うんぬん」「学閥うんぬん」というのは所詮庶民が気にするものなのです。
日本の教育制度がこれほど歪んでいる理由として次の事が挙げられます。上下を気にする序列社会であること。行き過ぎた中央集権システム。エリートを作らない事を目的とした戦後の教育改革。製造業に特化した労働者を育成する必要があったこと等などです。
また日本では良く飼いならされた者を「出来た人間」と見る習慣があります。そのために大人しい労働者を作り上げる教育を良しとしてしまう傾向があるのです。
日本人は男も女もお互いに飼い馴らし易いペットのような存在を求めています。経営者ならばどこまでも使い倒せる奴隷のような者を求めています。
つまり見た目が良くて御しやすく、ブランド付きという訳です。綺麗な包装紙に包まれた菓子折りのようなものでしょうか。
学閥社会には他にも問題があります。支配者候補・権力者候補といった「エリート」を多く生み出してしまう事です。しかし権力者の椅子には限りがあります。
国が発展すると最初は庶民も豊かになって行きます。そうして「エリート」と看做される人々も増えていきます。けれども富は限られています。そうするとやがて庶民から富裕層への富の移転が起こることになります。表面上はGDPが増えて経済も成長している様に見えます。
しかし早晩に富裕層の分け前が足りなくなって行きます。つまり庶民の賃金は減り健康を害し早死にして数が減っていきます。けれども「エリート」の数は増えていきます。そうなると今度は極端な富の収奪が起こるのです。現代の日本で起こっている事です。重税や値上げ、労働者の非正規化や賃金抑制、そして「中抜き」です。
最後は「エリート」同士の戦いが始まり殺し合いにまで発展するのです。もっともそれは様々な形を取り見かけ上は良く分からないかもしれません。これらは限られた権力と富を巡る闘いです。歴史上何度も繰り返されて来た事です。
1970年に学生運動が収まり日本人はしばらく平和を享受しました。「国の言う通り」「会社の言う通り」に動いていれば豊かになれたのです。しかし50年を経てそういった時代は終わりを告げました。これからはまた闘争と暴力の時代となるのです。三国志にある「合久必分」の言葉通りです。
そうして日本は再び統一されるかもしれません。あるいはそもそも国の体を成していないかもしれません。
ひとつ言えるのは、これからは、人の言いなりとなる人間は生きて行くのさえ難しくなるという事です。既に多くの人々が職を失ったり、資産を失ったりしています。生物学的ウェルビーングのバロメータである平均身長や平均寿命は悪くなる一方です。貧乏人はコメさえ食えなくなりました。
これから大勢の日本人が死んでいきます。例えそれが自分の家族であろうとも死骸を打ち捨てて前に進んで行かなければなりません。そのためには自分の中に核となる信念が必要です。そしてそれは自分で掴み取った真の教養に依って生み出されるものなのです。