kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

表面しか理解しない日本人

日本人は表面しか理解しない浅はかな人々です。一見すると覚えが早いようにも見えますが本質を理解していないのでいずれ失敗します。それをまた表面的に糊塗して誤魔化そうとします。現在の日本の凋落もこれが原因となっているのです。


近代文明は教育がベースとなっています。しかし日本の教育の現状を見ると惨憺たるものです。本質を教えるのではなく表面的なルールを頑なに守らせることを重視しています。

現代の教育では自我を育てることが大切です。この事が見過ごされています。受け身の学習ではなく、自ら計画を立てて学ぶ主体的な自我の育成です。人間の脳は育つにつれて、曖昧模糊とした右脳主体の意識から、言語を使う左脳へと自我の主体が移っていきます。これを促進するのが近代的な教育の役目です。

ところが日本では、未だに時代遅れの教授法が用いられています。日本人は文明人になりきれていません。自分で考えることができず命令に従うだけの労働者や兵隊を育成する時代はとっくに終わっているのです。


教育では子供にポジティブな動機を与えるのが大切です。要するに「学ぶのが楽しい」という気持ちにさせるのです。学習自体が喜びでなければ、脳に対する報酬となりません。日本ではそれとは反対に「言う通りにしないと罰が与えられる」という恐怖を利用して学習をさせているのです。当然のことながら「卒業をしたら勉強など真っ平ごめんだ」という人間に育ちます。

 

小学生は夏休みに大量の漢字書き取りや計算のドリルを与えられます。まるで何かの懲罰のようです。同じ漢字を繰り返し何度も書かせたり、単純な計算を大量にやらせるのです。日本人は「子供を野放しにするのはいけない」と考えているかのようです。


数学においては単なる計算や解法よりも、もととなる概念の方が余程大事です。なぜそれが生まれ、何に役立っているのかというのが大切です。ところが教科書では、本質を説明する事を省いて、いきなり計算方法を教えて演習へと入ってしまうのです。

日本の子供は数学の重要性を分かっていません。だから「三角関数因数分解に何の意味があるのか」と言う大人が育ってしまうのです。


日本人は本質を見抜いて法則を抽出する事ができません。代わりに適当に勝手なルールを作り上げてそれを守るように強要するのです。馬鹿の極みです。「5+3は正しいが、3+5は間違っている」と教えるような事が日本ではまかり通っています。


日本においては偉い人が決めたルールを、何の疑問もなく素直に覚えて、その通りに素早く実行できる人間が優れているとされます。こんなものは日本以外ではまったく通用しないような人材です。奴隷としてなら優秀と言えますが。

 

日本では英語、数学、国語が主要3教科とされています。ところがそこで教えているものは本質からズレたことばかりです。

国語は、漢字を覚え、日本的道徳を学び、出題者の意図を忖度する訓練を行う場所です。数学は先の通り、決められたルールに従って素早く行動をする訓練となっています。英語もまったく本質から外れています。日常では通用しないおかしな文法や文体が教えられ、それを守ることを強いられています。中学から大学まで英語を習っても、ちっとも英語が使えるようにならないという奇妙な状況に誰も疑問を抱きません。

彼らは自我が曖昧で、言語能力が劣っています。多くの高校生はまともなエッセイを書くことができません。時間軸に沿って矛盾のない統一性のあるストーリーを作り上げることもできません。時間という概念が曖昧で、短期的にしか物事を見ることができず、眼の前の餌に飛びつきます。全てが場当たり的です。現在の行動の繰り返しの先に、結果として未来があるというだけです。


日本企業の生産性が極めて低く、不祥事を連発しているのも、こういった事が原因となっています。彼らは内輪でしか通用しないルールを守ることに一生懸命となっています。顧客志向と言いながら、現実には客が二の次となっています。もしもトラブルが起こったら、場当たり的な対応に終始します。指導者は精神論を唱え、現場に全ての責任を押し付けます。こういった傾向は日本のどの企業でも官庁でも見られます。見事なまでに同じです。

日本の製品は過剰品質です。客が求めていない、どうでも良いところに労力をかけています。お客様の為ではなく何よりも自分たちの為にやっているのです。それに気づいていません。

多額のカネを注ぎ込んでもデジタル化は失敗してしまいます。未だに会議や調整、摺合せに多くの時間が割かれています。長時間労働は当たり前です。定時で帰る人はまずいません。それでいてアウトプットは貧弱です。

 

自分が社会人になった時の直属の上司は東大数学科卒でした。「余計な仕事をせずに如何に楽をするか」を常に考えている人でした。現場に関わる仕事は一切しませんでしたが、幾つかアドバイスを貰いました。例えば納品の準備をしていたら「そんなのは適当でいいから」と教えられました。納期が迫っているのに不具合が見つかっては面倒が増えるだけだからです。

「残業時間によって評価されるから残業をしてね。何をしていても良いから」と親切に言ってくれました。確かに食べたり飲んだりタバコ休憩をしながら残業をしているのは当たり前の事で、毎夜、モニターの前に座りながら眠っている人さえいました。

上司も自ら手帳をめくりながら遅くまで残っていました。そこに箴言を書き連ねており嬉しそうにそれを見せてくれる事もありました。残業中は始終貧乏ゆすりをしており、内心は辛かったに違いありません。する事がなかったからです。仕事は適当でしたが「幸福の科学」の熱心な信者であり、教えられた事を露ほども疑っていませんでした。


その他に京大数学科卒の上司もいました。何でも卒なくこなし英語も巧みでした。20歳代で課長になりましたが人望はありませんでした。課長になるともはや金勘定や要員管理、人事考課くらいしか仕事がありません。会社にほとんど来ないで遊んでいる人もいました。何かの専門がある訳ではありません。専門家になってしまうのは恥ずかしい事だと思われていました。「何かが出来るわけではないが、やらせれば何でも出来るはずだ」というのが典型的な日本のエリートです。最も重要な関心事はどれだけ早く社内で高い地位に就けるかということです。社内政治が重要な技術です。

会社には学校ごとの派閥もあります。東工大、阪大、早稲田、東京理科大などが自部署での勢力拡大を狙っており、互いに牽制をして争っていました。「よくこれで会社は利益を上げられるものだ」とその頃は不思議に思っていました。

 

今では管理職といえどもプレイヤーである事が求められるようになっています。人員不足ですから仕方がないのです。それでも生産性が上がらないのはご存知のとおりです。サボってはいませんが、問題なのは、彼らが会社の業績に貢献していると誤解している点です。

 

表面しか見ることのできない彼らには、肝心な頭が欠けています。小手先の事には拘りますが大局的に考えることができないのです。

いっそのこと、明治時代のように教師や技術指導者は外国人にしたほうがいいかもしれません。管理職もです。皮肉なことですが日本の未来は、日本人ではない人々に任せたほうが良い結果を得られるはずなのです。

意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

賢者の石 (創元推理文庫 641-1)

Amazon.co.jp