kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

大事に疎く些事に煩い日本人

日本人は大事な場面で失敗する人々です。細かい事にはうるさいですが、肝心な場所でいつも誤るのです。それゆえ結局は大したことを成し遂げられません。大局で過(あやま)つは日本人の性(さが)です。

 

日本人は細かいことを律儀に守ります。以前にこんな事がありました。スーパーでセルフレジを使用しようとした時のことです。何故かその日に限って店員が通せんぼをするのです。どうやら入口と出口の区別が出来たようです。といっても空いている時間帯なのでレジの置いてあるスペースはガラガラです。どちらから入っても構わないように見えます。状況に応じて柔軟に対応すればいいのに日本人にはそれが出来ないのです。店員は鬼の形相で仁王立ちしており、交渉はできそうにもない状況でした。仕方がないので、わざわざ10mくらい離れている「入口」まで移動しました。

 

またこんな事もありました。とあるビルに入ろうとしたら、工事用パイロンやコーン・バーが乱雑にその辺に置かれていました。通り抜けようとしたら、一服していた作業員が慌てて駆け寄り必死で制止します。「向こう側を通ってください」と。どちらにしてもパイロンはきちんと置かれていないし、何より工事自体が始まっていません。けれども断固とした様子で聞く耳を持ちません。仕方なく後ろで詰まっていた人々と共に反対側へと移動したのです。

おそらくですが、津波に飲み込まれたあの東北の子ども達も、このような釈然としない気持ちで教師の言葉に聞き従い、そうして亡くなったに違いありません。

 

さらにまたこんな事例もあります。慌ただしい平日の朝のことです。掃除夫がマンションの住民を捕まえて怒鳴り散らしています。燃えるゴミの日でした。どうやらゴミ袋が決められた市町村のものでなかったようなのです。おそらく引っ越してきたばかりで、以前に住んでいた場所のゴミ袋をそのまま使ってしまったのでしょう。しかしそんな事情にはお構いなく、まるで鬼の首をとったかのように住民を指導しているのです。普段はおとなしい掃除夫も、今日に限っては勝ち誇った英雄です。

 

日本人は「上か下か」という序列に敏感です。普段はヘコヘコしているような店員や作業員も「いざ規則を守らねば」となると、途端に「上」の立場となるのです。匹夫(ひっぷ)もヒーローとなることができます。日本のあちこちで「ミニ警察」が跋扈(ばっこ)する所以(ゆえん)です。

 

日本人は「どういう意味をもつか」という事をまったく理解しません。ただ「決められたルールだから」という理由で、杓子定規に守り通そうとします。そこに議論や交渉の余地はまったくありません。「だって、ここにそう書かれているじゃないですか」で終わりです。

日本では、音楽やスポーツ競技の指導、はたまた算数の教育でも、お作法の躾(しつけ)をしているかのようです。本質はどうでもよいのです。ただ自分が言うがままに弟子が付き従う様子を見て満足するのです。

 

加藤典洋の「敗戦後論」にこんな事が書かれています。「湾岸戦争に反対する」という文化人の署名声明についての批評です。何らかの理由があり、戦争に反対する。だから、それに則った法律も必要だ。というのが正常な人間が考える順序です。ところがその声明文を見ると順序が逆なのです。すなわち、憲法にこう書かれているから戦争に反対する。そのような理屈になっているのです。「じゃあ、憲法や法律に書かれていなかったら、何でも許されるのですか」と尋ねたくなりますよね。

もっとも彼らを少し擁護することもできます。日本人はソースや根拠を示さないと納得しないのです。「権威ある人がこう言った」というのは良いのですが、「私はこう考える」というのは全く受け付けて貰えないのです。

 

日本人は万事がこの調子です。自分を起点にして物事を考えられません。学歴や職業、知能指数に関係なくです。思考停止の状態で決められたルールをひたすら守ろうとするのです。実に日本人は、即物的で考えの浅い人々です。深く物事を考えるという事ができません。過去の失敗から学ぶどころか、現実そのものを見ることができません。「こうであったらいい」という泡沫(うたかた)の妄想に生きています。日本のマスメディアの報道を見てください。あたかも現実と乖離したパラレルワールドのようです。

日本人の多くはテレビがなければ考えることもできません。「買え」と言われれば無駄なものまで買います。自分が何を欲しているのかさえも分からないのです。テレビは計画実現に必要なイメージする力を損ないます。テレビなんか捨てたほうがいい。私はそうしています。

 

これまで多くのプロジェクトを見てきました。日本で、まともなプロジェクト運営が出来ている例はごくまれにしかありません。失敗する度合いは、プロジェクトの規模が大きくなればなるほど高まります。しかも大失敗となっても、公式には失敗とされないのです。責任者が咎められることはありません。それどころか栄転する場合もあるのです。

 

プロジェクトが成功するかどうか。それはプロジェクトマネージャー個人の資質に大きく依存します。ところが日本では、まともなプロジェクトマネージャーがほとんどいないのです。マネージャーとは名ばかりで、誰が実際にプロジェクトを主導しているのか分からない場合も多々あります。

実力があっても、縦割り組織のために各部署がまったく動いてくれないという事もあります。かといって強引に辣腕(らつわん)を振るうリーダーが望ましいかというと、そうじゃない。現場がデスマーチと化してしまうのです。

プロジェクト管理には、抽象的な目標を常に見据えられること。断固とした決断力と推進力があること。実際の人間心理に通じた交渉力と説得力を持ち合わせていること。こういった要素が求められます。つまり自分が吐いた言葉を全て実現させられる人です。これは優れた経営者やリーダーにも求められる資質です。日本にはこのような真のエリートがいません。

 

話は変わりますが「縦割りの日本組織」に苦言を呈する宗主国の報告書について報道がありました。宗主国にとって、命令一下で動いてくれるような組織が支配しやすいというのは分かります。すなわち独裁国家が理想なのです。うまく機能しなかったら首をすげ替えるだけです。

しかし日本国民にとっては迷惑な話です。「他国の言いなり」という理由だけではありません。日本人の統治者に好き勝手なことをされてしまうからです。しかも相当に頭が弱いと来ています。日本にはエリートがいないのです。頭が悪いのに律儀に働き、かえって事態を悪化させてしまうというのが、日本人に共通する特性です。

 

日本人は明治維新以降、国を導けるような優秀な人材を見つけては教育し、官吏として登用してきました。しかし失敗しました。馬鹿な指導者のお陰で大国との戦争に突入したのです。それまでに築いたインフラや財産を、敗戦で全て失うことになったのです。

戦前の陸軍大学、海軍大学出身者は、知力、体力、人格において最も優れたエリートであったはずです。けれども戦争遂行において多くの間違いをおかしました。何より開戦の決断が間違っていました。彼らは大局を見ることができないのです。

 

日本は優れた指導者が育たない国です。エリートとされる層は、既得権益に浸かり、うまい汁を吸うだけの人々です。自分の仕事をしていません。たとえ仕事をしたとしても、大局を俯瞰できずに間違いばかりを犯します。

日本人は、部分部分を最適化することができても、全体を最適化することができません。個人として優れた者が現れても、淘汰されて生き残ることができません。結局残るのは馬鹿ばかりです。

 

愚劣な指導者よりは、宗主国による直接統治のほうがどれ程良いことでしょう。そう思いませんか?

敗戦後論 (ちくま文庫)

日米同盟の弱点「縦割りの日本政府」、一元的な情報分析機関の設置促す…アーミテージ・ナイ報告書 : 読売新聞