日本人は依存心が強い人々です。世界一冷たい人々と言われる日本人ですが、その一方で他人に寄りかかろうとするのが日本人なのです。
日本には厳しい掟が存在しています。世間のルールです。それを破るとネットでは炎上し、社会的生命を絶たれてしまう事もあります。ところがその一方で、何をやっても許される人々がいます。
「日本では老人と幼児は何をやっても許される」と指摘した人がいました。今でも当てはまります。例えば、フレックスの使用に厳しい会社でも「子どもが熱を出して」「子供を迎えにいかないと」と言えば、簡単に早退することができます。また老人は、どんな酷い事を言っても許されます。公園で遊んでいる子供たちを怒鳴りつけても許されます。
上に立つものと、下に位置する新参者だけは特別扱いを受けます。「外人」も来日した当初は特別扱いを受けます。「日本語がお上手ですね」と褒めてもらえます。「マレビト」は尊い存在です。一家の長と、一時的なお客様だけは特別なのです。
日本では支配という形を取りながらも、実は依存しているという事がよくあります。上位には、全てを周りがやってくれて、何もしなくて良いという人々がいます。逆に言えば、取り巻きがいなければ、何もできません。赤ん坊も同じです。全てにおいて世話になりながらも、泣くことによって周囲を支配しています。
日本の女性は、専業主婦を望む人が多いと言われています。風俗嬢でさえも、誰かいい人を見つけて安定した生活を送りたいと夢想しています。恋愛依存症と呼ばれることもありますが、孤独に耐えられずに寄生するのです。
女性にとっての結婚は、男性にとっての就職と同じです。上の階層に這い上がれるか、下の階層に転落するかが決まってしまうのです。変な相手と一緒になるより、親に寄生していた方がマシです。彼らにとっては、見栄としての結婚や幸せそうな家庭、見栄としての家と子供があるだけです。
サラリーマンも同じです。大学で身につけた能力を企業に売り込むのではありません。自分という全存在をさらけ出し、体を買ってもらうのです。能力ではなく、学歴から判断される基礎的な能力や、素直さ、従順さを備えているかが大切です。
こうして40年に渡る奴隷生活が始まります。60歳辺りで、ようやく自分自身を買い戻す事ができるのです。けれども奴隷生活が身についているので、自由な生活とは何かが分かりません。
ほとんどの日本人は「誰かに決めて欲しい。自分で考えるのは嫌だ」と感じています。DNAに奴隷根性が刻み込まれているかのようです。
相手を侮辱しながらも、その相手にすがろうとするのが日本人です。しかも傲慢な態度でです。コンビニにおける老齢者の横暴を見てください。
自分の子供が家庭を持ち、孫が出来ると、食事の残り物や贈り物を持っていきます。頼まれてもいないのにです。これも依存ですが、支配という形を取ります。思いやりは感じられず、態度は傲慢です。
電車の中で老人同士が話をしていました。兄妹のようです。弟の1周忌に行こうとしており、寡夫となった義妹の悪口を言っています。「普通、墓参りに行くっていったら『泊まっていってください』って言うよな! 俺の実家だぞ」「あの女は昔から掃除なんかしやしない。汚いに決まってる。泊まらない方がいいよ」と盛り上がっています。
ベタベタとした関係を求め、それが受け入れられないとなると、途端に憎みだすのが日本人の特徴です。
「火事に気をつけて」という簡単な発言でさえも、日本人の歪んだ心を表しています。火事に気をつけるのは当たり前です。そんな当たり前な事をわざわざ言って、相手より上位に立とうとするのが日本人です。
タテ方向の関係はあっても、横方向の繋がりが無いのが日本人です。ですから、このような「上か下か」という歪な形で、人とつながろうとするのです。
日本人は、無限の愛を求めます。無条件に愛されるというのは、赤子だけが許されることです。あるいは神だけが、そういった愛を与えてくれるでしょう。しかしながら日本人は、無限の愛を周りから得ようとしています。何をやっても許される存在です。
どういったメカニズムが日本人を動かしているのでしょうか。今では「義理と人情」「罪と恥」という言葉は使われなくなりました。しかし、こういった言葉は消えても、その意味するところが消えて無くなったわけではありません。
「義理」とは言いませんが、日本人は世間のルールに敏感です。「人情」とは言いませんが、「絆」や「つながり」「一緒に頑張ろう」という言葉を発します。そして無条件の賛同を求めてきます。そうしないと苛烈な攻撃を開始するのです。
「マウンティング」という支配の形をとってくることもあります。彼らは理屈抜きで、自分を誰かに受け入れてもらいたいのです。「甘える」という言葉は使われなくなりましたが、確かに日本人は今でも「甘え」ています。
「罪」という言葉も法廷以外では使われません。「恥」という言葉も滅多に使われません。「恥」というのは、右脳における明確に意識されない動揺です。「罪」というのは、その動揺を左脳によって言語化したものです。
現代の日本においては、ネットで罵倒されるのが最大の屈辱です。しかし実際には、それで恥じ入ってはいないのです。反射的に言い返し、開き直ります。権力があればそれで済みます。しかし敵わないとみるや、土下座をして謝罪します。そこに理性的存在としての人間の尊厳は一切ありません。
結局のところ、日本人は退化しています。抽象的な「罪」を認識するどころか、恥じ入る感覚さえ失ってしまったのです。己を省みる事ができません。
「罪と恥」が心から消えた日本人は無敵です。もはや自身を縛るものは何もありません。組織にいる間は、そのルールに従って動きますが、それ以外ではやりたい放題です。
家長制度や家族そのものが崩壊し、先祖や尊いものに連なるという感覚も消えました。モラルの核を失い、下劣な欲望をむき出しにしています。そこに、近代が育んできた「個人」は全く存在しません。
日本人は頼れる多くのものを失いました。しかしそれでも日本人は、誰かに自分を買い取って貰わなければなりません。彼らは骨の髄まで奴隷と言えるでしょう。
「字幕を誤魔化せ」「数字を改ざんしろ」と言われれば進んで応じます。「○ね」と言われれば飛び降ります。上には媚びへつらい、下には威張り散らします。
彼らは人間ではありません。何より自身がそう考えていないのです。この国に人権という意識が無い理由です。
個人が無い社会は、究極の無責任社会です。ヒトという単位が無いのですから、責任の所在が明確になるはずがありません。公私混同もまかり通ります。国という分限さえもはっきりしません。放って置くと世界を飲み込もうとします。日本は、映画「AKIRA」のラストシーンように不気味な存在です。
抽象的思考を欠いた人間は、かくも酷いものとなり得るのです。彼らは絶対座標の中で自分の立ち位置を考えることができません。日本人が仮説を立てるのが不得手だったり、リスク管理ができなかったり、システム構築が苦手だったりするのは、全てここから来ています。日本人には言語教育が何より大事です。
この国では悪魔のような人間と、隷属する人間にはっきりと分かれます。彼らが自虐的に「この国は地獄だ」と語るゆえんです。
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