日本人には倫理がありません。彼らは法に触れなければ何をしても構わないと考えています。もっと言えばバレなければ何をしてもいいのです。彼らに高い倫理を求めることはできません。しかし倫理がないことが様々な失敗の原因となっているのです。
日本人は差別的な表現をしたり、反社会的な発言をしたりして頻繁に世界から叩かれます。彼らは正確に事象を認識し学習することができないので、同じ間違いを何度も繰り返します。
昨今の日本人が好きな表現を使えば、「息をするように差別をする」のです。なぜ日本人は骨の髄まで差別が好きなのでしょうか。なぜなら「人間には上下がある」という考えが体に染み付いているからです。上の人間には平身低頭でかしずくべきだし、下の人間に対しては好きなだけ痛めつけて良いと考えています。
日本人を笑わせたり気持ちよくさせるのは実に簡単です。自虐ネタを披露したり、第三者を馬鹿にしたりすれば良いのです。つまり「あなたより下の人間がいますよ」と言うのです。そうすれば相手は気持ちよく笑ってくれます。自分の妻や子供をわざとバカにして相手の機嫌をとろうとする父親を見たことがあるかもしれません。あれも同じです。
日本人は「お笑い」が大好きです。この国のお笑い芸人はどれもこれも醜い顔をしています。話す内容やウイットで笑いをとるのではありません。いかにも下劣な人間が、馬鹿な振る舞いをするのを見て、観客は手を叩いて喜ぶのです。
このようなクズ芸人をメディアはこぞって取り上げます。芸人がときどき、政治や社会、経済に関係する発言をすることがあります。体制側に寄り添った発言です。それがネットニュースで大きく扱われます。それを見聞きして「あんな連中でも立派な事を言う。自分も気をつけないと」と襟を正すのです。逆に体制に楯突くような発言であれば「政治的な発言をするな」と叩かれます。お笑い芸人を使えば、幼稚な日本人を操るのは簡単です。この国では芸人が道徳を教えるのです。
日本人は自分より下に位置する人間を常に必要としています。自身の精神を安定させるためです。
入社したばかりの新人はどこか自信がなさげです。「社会人」になってしまった自分を恥じて、社会に対してスネた態度をとっている場合もあります。そうした新人も数年経つと自信を持つようになります。会うと「うちの部署に使えねえ奴がいてさ〜」といった具合で汚い悪口を言うのです。日本人が独り立ちするには「自分より下の人間がいる」という意識が絶対に必要なのです。
日本人は神や法律、倫理を軸として、個人がゆるやかなネットワークで繋がっているという考えを持つことができません。想像することさえ困難です。
いま、「神や法律、倫理」と並列に表現しました。宗教や法律、そして倫理というのは良く似ています。というより根は同じものです。昔の宗教というのは法体系でもありました。たとえば旧約聖書のレビ記や申命記を見てください。細かく規定が書き込まれています。慣習法というのはその社会に通底している倫理でもあります。それが制定法となります。倫理と法律は元来等しいものなのです。
日本人は絶対神を持ち得なかったばかりではありません。同じように法律や倫理を持つことさえできなかったのです。借り物の「法体系」や道徳はあります。しかし彼らはそれを決して理解していないのです。重要でもありません。法は簡単に捻じ曲げられます。容易に人治主義へと陥ってしまうのです。法律さえ守ることが出来ないのですから、倫理については何をかいわんやです。
日本人は抽象的な概念を扱うのが苦手です。そのかわりに具体的なものや、どうでも良い細かいことには気を使います。彼らの考えはせいぜい身の回りの半径数メートルぐらいにしか及ばないのです。
身近にいる上の人間が自分を認めてくれているか。下の人間は自分を敬ってくれているか。同僚から自分が浮いていないか。逆に同僚で目立ち過ぎている奴はいないか。そういった事を一生懸命に考えます。
日本ではプロジェクト運営がうまく行きません。原因のひとつに上下関係があります。プロジェクトにもマネージャーやリーダー、メンバがいます。けれどもこれは必ずしも職制上の上下関係と一致しません。そうなるといろいろな確執が生じ、プロジェクトが動かなくなってしまうのです。プロジェクトマネージャーといえども、職制上同格の人間やベテラン社員に無碍に命令を出すことはできません。入社年次が上の人間が居たら絶望的です。
会議では誰かに直接発言するのではなく、空中に向かって発言します。何が決まったのか曖昧にされたまま会議が終わってしまいます。「雰囲気を察してくれ」というわけです。こうして互いに対立することを避けているのです。
これとは逆なのが、下請け会社や業者です。こういった連中は「外」の人間であり、格下の存在です。だから信じられないほど横暴なことが行われます。人間扱いさえされないのです。
日本の企業は、こういったピラミッド型の序列によって、ある意味うまくいっていたのです。日本では「ユーザ企業は何故IT技術者を内製の社員で賄わないのか」といった議論がよく湧き上がります。企業がそうしないのは、まさに上で述べたような理由があるからです。
同じ会社の社員になった途端に、無理難題を押し付けることが出来なくなり、プロジェクトが頓挫してしまうのです。日本では、IT技術者というのは配管工や左官屋と同じで卑しい身分です。この国は底辺の奴隷の頑張りによって成り立っているのです。
最新のIT機器は、会社間の緩やかな結合によって生まれます。どこが上でどこが下かというのはありません。平等です。外国の業者でも誤解が生じないように、正確なコミュニケーション能力が必要とされます。「空気を読んでくれ」とはいかないのです。日本人が適応できないのも無理はありません。
この国では上下関係が非常に大事です。精神を正常に保ち、仕事を進めるために必要なのです。日本では奴隷の存在が欠かせません。「奴隷」という言葉はあまり使われませんが、実際にはそこここに存在するのです。女性というのは、仕事でも家庭でもカーストの最底辺に位置する使い捨ての奴隷です。言われるがままに産み育て死ぬまで働いてくれます。
日本人の心に法や倫理といった概念は皆無です。下になった途端に人権は踏みにじられてしまうのです。その代わりに上の人間になれば、どんな好き放題でもできるようになります。
日本では誰も法律を遵守していません。判事でさえもです。検事に至っては権力を振るう都合のよい道具としか思っていません。さらには法を理解していない奴が、法律を作っています。
高偏差値の人間がこぞって官僚を目指していたのは不思議でも何でもありません。この国では法律やカネよりも権威がものを言っていったのです。
「規則やルールが細かく定められている」から「日本は法治国家なのだ」と誤解をしてはいけません。厳しい規則が定められている国では、汚職と腐敗が蔓延するのです。ルールで縛られた社会は衰退していきます。
そのような国はゼロサムゲームの社会となります。限られたパイを奪い合う社会です。誰もが法律の抜け穴を探し出して自分だけ得をしようと試みます。法律の矛盾や抜け穴を知っている官僚が、高給で民間に迎えられるようになります。
図に乗って増長した彼らは、民間を圧迫して自分たちの権威を見せつけます。国交省が自動車製造会社を。厚労省が製薬会社を。といった具合にです。「俺達のおかげで儲けたのだから、調子に乗るな」というわけです。落ちぶれた役人が、かつての栄光を取り戻そうとしています。
大企業でさえも、この国に居続けたら永遠に官僚や政治家にたかられ続けるのです。身銭を切らずに安全な場所にいてリターンだけを頂こうという連中です。やがて彼らはシロアリのように国全体を食いつぶしていきます。
国の在り方として次の方法があります。あらかじめ規則で縛るか。あるいは何をやってもいいが結果責任をとらせるか。この2つです。日本は前者です。アングロサクソンの国は後者です。彼らを無条件に賛美するつもりはありませんが、こうした違いが国の興隆に関係しているというのは念頭に置いておくべきでしょう。
規則だらけの国では全体のパイが縮小し衰退していきます。結果責任の社会では、全体のパイが増えていきます。前者では自分の生まれによって一生が決まります。後者では誰であっても成功する可能性がありますが、逆に一文無しとなることもあります。
日本人は倫理や法律が身についていません。こうした人間が住む社会は「各々の自由に任せ、その代わりに行動の責任をとらせる」という考え方ができません。あらかじめ規則で雁字がらめに縛っておくという事をするのです。昨今の日本では、細かい規則を破ってもペナルティがあり、結果責任もとらされるという酷い社会となっています。これでは未来がありません。
現在の日本の惨憺たる状況は、決して一過性のものではありません。日本人の本性に根ざした深い原因があるのです。