自動車業界で現在起きているのは、移動の革命です。これを単に電気自動車や自動運転、空飛ぶクルマなどのバズワードで捉えてしまうと、未来を見誤ります。
通信における革命はインターネットから始まり、我々のライフスタイルを変えてしまいました。移動の革命も我々の生活を一変させることになるでしょう。
クルマはコモディティ化がさらに進み、低価格で利用できるようになります。所有という概念さえ無くなるでしょう。あまりにも当たり前の存在となり、耐久消費財として生活の中に占める割合も小さくなります。
趣味性の高いガソリン車は残ります。しかし僅かです。お金を持っている人が乗馬を楽しむようなものです。粗雑なガソリン車も、インフラの整備されていない貧困国や戦場で、引き続き利用されることでしょう。
もう少し経てば、自動運転は当たり前になります。無人のコミューターが幹線道路を流れ、タクシーのように簡単に利用ができるようになります。予約も呼び出しも簡単です。1人乗りや2人乗り、4人乗りなどのいくつかのタイプから選ぶことができるようになるでしょう。当然、物流専用車も走っています。
個々のクルマは他のクルマと連動するだけでなく、システムによって全体的に制御されます。交通事故が劇的に減るので、さまざまな安全装置が不要になります。車体も電車のようにペラペラな金属や樹脂で作られるようになるでしょう。車重はより軽くなり、製造や維持コストも低減されます。必要な電力も少なくなります。予測不可能な渋滞も解消されるでしょう。クルマは安価な料金で共有できます。所得の低い人や障がい者も気軽に移動できる世界が到来するのです。
豪華な装備を備えた高級車は、少なくなるでしょう。フェラーリやランボルギーニといったブランドは生き残ります。その他のメーカーは、製造メーカーではなく交通システムを提供するプラットフォーマーへと姿を変えます。
大衆用のクルマを大量に作っているメーカーには未来がありません。安価なデジタル時計を作っているメーカーと同じようなものです。一方でパガーニが作るようなクルマは、エンジンもメーターも全て熟練職人による手作りです。富裕層向けの芸術品です。こういった特別なクルマは、僅かですが需要があるのです。
未来を制するのはメーカーではなく、プラットフォーマーです。すべてのコミューターを制御するシステム基盤を、自分で構築し提供できる企業です。しかしながら、こういったプラットフォームの構築は、日本人がもっとも不得意とするものです。
ケータイがスマホに一掃されてしまったように、従来の自動車メーカーも一掃されます。単にクルマだけを作っているメーカーは、末端の製造業者として生き残ることができます。ただし、プラットフォームを利用させてもらう為に、高額なライセンス料を払わないといけません。
安いけれど機能盛り沢山のケータイとか、安価で多機能を誇るデジタル時計には、何の魅力もありません。同じように、「安いけれども品質がいいです」「ちょっと速いです」などというクルマの需要は無くなるのです。
たぶん、日本のメーカーはガソリン車に固執することでしょう。世界の国々が着々とプラットフォームを構築し、インフラを整備する一方で、日本だけがガラパゴス化するのです。
二酸化炭素の削減をと言いながら、二酸化炭素を排出し続けます。庶民は相変わらず不便なガソリン車を購入し、高いガソリン代を払って移動しなければならないのです。彼らはそもそも、なぜ人類が二酸化炭素の排出を抑えようとしているのか、その文脈を理解しているのでしょうか。同じ電気自動車を作るにしても、仕方なくではなく、使命感を持ってやらねば良い結果を生み出せません。
世の中の動きが急すぎると感じているかもしれませんが、このくらいの速度で変革を成し遂げなければ、人類の未来が危うくなるのです。「電池を生産するとかえって二酸化炭素が…」などとゴネている場合ではありません。いつまでも石油に頼るわけにはいかないのです。
振り返れば確かに、趣味としてのクルマは楽しいものでした。日本が好景気だった頃は、ポルシェも飛ぶように売れました。目黒のお店では、現金の入った紙袋を抱えた人々が列をなしていたのです。新車だけでは需要に追いつかないので、海外からの中古並行も多く入ってきました。
高性能車をさらにチューニングする人もいました。その頃、谷田部にあった周回路で、実測300km/h以上を計測したクルマが何台もあったのです。
その当時でもカタログ上で300kmを唄うクルマはありましたが、実際にはそんなに出るものではありませんでした。例えばメーター上は280kmあたりを示していても、メーターの誤差や10%のスリップロスを考えると、せいぜい240kmくらいしか出ていないのです。
時間は貴重です。早く目的地に着くのなら電気自動車でも全然構いません。ガソリン車の魅力といっても、振動として伝わってくるエンジンのリズムとか、焼けたオイルの匂いとか、排気音ぐらいしかないのです。道具として優れていれば結構です。更に自動運転ならば、ラクな上に安全です。
虚栄心を満たすモノの価値というのは、あとからついてくるのです。
日本では、自動車も随分高くなりました。軽自動車でさえ必要なオプションを付けると乗り出し価格で200万円弱です。重量税や保険があり、数年で車検が必要です。もはや日本のメーカーは安くて性能の良いガソリン車を提供することもできないのです。
日本が最も豊かだった頃は、庶民でも、高性能の日本製スポーツカーが買えました。高速域は別ですが、これらのクルマは、その頃のフェラーリやポルシェのカレラよりも速いことがあったのです。
とはいえ、高性能を謳っていても、日本メーカーの高級ブランド化はついに叶いませんでした。速いスポーツカーも「カルトカー」扱いです。ヲタクや労働者階級の人々が乗るクルマです。初期の「ワイルド・スピード」シリーズで描かれているようにです。
さらにその頃であっても、ポルシェターボだけは別格でした。地点Aから地点Bまで、可能な限り速く移動するための道具です。超高速で数時間巡航することが可能で、中間加速が鋭く、安心感のあるブレーキを備えていました。ブーストアップだけでさらに速くなりますが、それに耐えうる余裕がありました。日本車だと、ブレーキシステムを強化したり、大型のインタークーラーに替えたり、車体剛性を補強したりといった事をしないと安心できないのです。フラッグシップでさえ、この有様です。
日本製品には余裕が無いので、何か突出した性能を得ようとすると、必ず何処かが犠牲になるのです。かって、日本の戦闘機は、機動力と航続性能に拘るあまり、防御力や機体の強度を犠牲にしました。危なくなったら急降下で逃げるのが常道ですが、日本の戦闘機でそれをやると、十分な速度が出ないだけでなく、空中分解する危険性もあったのです。
日本人は個々の性能を突き詰めていく事はできても、全体としてバランスのとれた製品を提供するのは苦手です。運用や交通システム全体を含めて設計するとなると絶望的です。常に全体を見据えながら、個々の部品を最適化するというのが出来ない人々なのです。
そもそも日本には、全体の構想を描く人がいません。それに投資してみようと思う人もいません。アイデアにカネを払おうと考える人がいないのです。人類の未来や全体像を見ていないのだから、当たり前です。さらに日本にはイノベーターも、アーリー・アダプターも存在しません。流行っているものを真似るだけです。
これからどうしたら良いのでしょうか。人々は今でも、役所には最高の叡智が集まっていると信じており、大企業も、官を仰いでいるような状況です。今は第二の敗戦というだけではなく、戦時中から始まった統制経済が行き詰まっているのです。もっと言うと明治維新からの官僚機構が機能しなくなっているのです。それだけに根が深く、改革は容易ではないのです。
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