人間は霊的な存在となる事ができるでしょうか。すなわち何時の日にか肉体を持たない純粋に霊的な存在として生きることは可能なのでしょうか。
「肉体から離れた精神的な存在となって永遠に生きたい」という人間の願望は宗教において繰り返し見ることができます。人は何故このような願いを持つようになったのでしょうか。
もともと人間は過去から抽象的な教訓を学んでそれを基にして未来を予測する動物として進化してきました。それにより素早く環境の変化に適応することができたのです。
問題は脳が何段階にも渡って抽象化の過程を繰り返すために人が「夢」を見るようになった事です。「より良き未来」「より良い環境」を求めて思い悩む存在となったのです。それが行き過ぎるとギリシャの哲学者達のように永遠の存在である「イデア」を求めてあれこれ考えるようになるのです。
「禁断の惑星」という1956年のSF映画があります。理想を追い求める人間の願望が恐ろしい悲劇を生み出してしまう様子を寓話的に描いています。舞台は高度な知的生命体が大昔に滅び去った地球から遠く離れた恒星系に属する惑星です。そこで数十年前に遭難した地球人の様子を探るための救助隊が光速宇宙船で惑星へ赴くところから話は始まります。
その惑星に住んでいた知的生命体は物理的な束縛から離れた純粋に精神的な存在となる事を望んでいました。もう少しでそれが実現する所にまで文明が発達していたのです。
彼らは心のなかに思い描いたものを何であれ物理的に生み出せる技術を得ていました。食料や着る物、宝飾品だけでなく複雑な機械や生命体もです。核融合を利用したエネルギー生成システムも完備されており、無限のエネルギーをそこから得ることも可能だったのです。
しかしそれが悲劇を生みます。彼らの知能指数は人間と比べて非常に高いものでしたが脳の構造は人間と大差なかったのです。つまり動物的な脳が中心にありその外側を新しい皮質が覆っていたのです。論理的に考える皮質はありますが、それと同時に意識では制御し切れない動物的な無意識や本能があったのです。
いくら論理的に考える事が出来て、なおかつ洗練された倫理を持っていても、無意識には妬みや憎しみが渦巻いています。その潜在意識が彼らの技術を通して「イド」という怪物を勝手に生み出してしまったのです。
言うまでもなく「イド」というのはフロイトが使っていた無意識の称号です。それにあやかって付けられた名前です。「イド」を使って彼ら異星人は互いに殺し合うようになり、永遠の霊的存在となる前に絶滅してしまったわけです。
異星人の文明を継いだ地球人の生き残りである天才言語学者も「イド」を作り出すことになります。無限のエネルギーによって絶えず分子構造を刷新する不死身で無敵の怪物です。博士は救助されることは望んでおらず娘と一緒に静かに暮らす事を望んでいました。彼が眠っている間に潜在意識の憎しみが不死身の怪物へと姿を変えて救助隊を殺戮し始めました。
この映画は、高度な文明に対してあまりにも不釣り合いな人間について問題を提起しています。どれだけ文明が進歩しても脳の構造が今のままだったら必ず悲劇が起こります。文明を発展させる前に人間の脳を何とかしなければいけないのです。
しかしここで疑問が湧き上がります。人間が本能や無意識を捨て去ったら、それは人間にとって幸せなことなのでしょうか。いや、そもそもそれは人間といえるのでしょうか?
人間の多くの行動は食欲や性欲に基づいています。今でもフロイトが指摘した通りです。一見高い倫理観に基づいて行動しているように見えても、動機の根本を辿っていくと原始的な本能に行き着くのです。
たとえば我々が仕事をしている場合でも、毎日の昼食や嗜好品を知らず知らずのうちに報酬として自分を駆り立てている事に気づく場合があります。大きな目標を立てて邁進していてもそれは業績を挙げてより良いパートナーを見つけたり、集団内でボスとしての立場を得る為だったりします。
もし原始的な本能を失ってしまったら、人間は何もしなくなってしまうでしょう。人工知能と同じです。エネルギーを供給されて生きているだけの存在です。高度な思考が可能ですが「電気を切るぞ」「壊してやる」と言っても動じません。命令された事をただ受け入れるだけです。
人間が本能を失ってしまったら、生きていられるかどうかさえ疑問です。内蔵も含めた身体からの刺激は脳幹を通じて大脳に伝わります。逆に脳から身体への司令も脳幹を通じて伝達されます。
この身体から脳への刺激だけが物理的に断たれると、人間はたちまちのうちに意識を失うことが分かっています。体からの刺激が無いと人間は意識を保つことさえできないのです。
我々が自律的に考えて行動しているように見えるのはただの幻想です。我々は単に刺激に反応しているだけなのです。それが結果として思考を生み出しているのです。
外からの刺激に応じて自分を変えて環境に適応する。そうして生き残り子孫を増やす。人間にはこれ以上の意味はありません。そうした存在として人間は進化してきました。より良く適応するがために高度な思考力を備えているに過ぎないのです。
我々は肉欲を捨て去ることはできません。そうであるならば行き過ぎた高度な文明は人間を滅ぼす結果になるのかもしれません。あるいは曲りなりにも今まで上手くやって来たのだからこれからも生き延びられるのかもしれません。
しかしその前に人類は自分自身をもっとよく知ることが必要です。この数世紀は物質に囚われた時代でした。自分の動機を理解せずに仕事や研究に邁進している人々が大勢います。物質文明を推し進める前に、我々は人間自身をもっと良く探求する必要があるのです。