kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

ヒトを使い潰す国、ニッポン

日本では人間に価値がありません。使い捨てられる運命にあります。常に誰かの所有物に過ぎません。それでいて、誰に仕えているのかも理解していないのです。盲目的に働いている奴隷です。

 

親が「子供をどういう人間に育てたいか」と尋ねられた時に答える決まり文句があります。「人様に迷惑をかけない」という言葉です。決して親に歯向かわない子供を望んでいるのです。世間に迷惑をかけませんが、その代わりに何の役にも立たない人間です。

「人様に迷惑をかけるな」という言葉の裏には、「俺に迷惑をかけるな」という親の気持ちが込められています。「黙って従え」「余計なことを言うな」と言っているのです。自分を脅かす存在になって欲しくないので、我が子の成長や独立さえ望んでいません。敏感な子供はそれを察して、要望通りの大人しい人間へと育ちます。

 

日本では「保証人」という不思議な習わしがあります。何かあったら、その保証人に無限責任を負わせるというのです。契約書や手形に保証人として名前を書かれると、いつの間にか奴隷になってしまうのです。日本では、ヒトが担保として気軽に扱われています。

 

その昔、日本にも、牛車というものがありました。しかし日本人は気づきました。「牛に引かせるよりも、人間にカゴを運ばせた方が安くすむじゃないか」と。しかも、カゴを運ばせる以外の仕事もやらせることができるのです。

彼らは、畑を耕す場合でも、家畜を使うより人間にやらせた方がいいと考えました。この点では、日本は他のアジア諸国よりも劣っています。

昔の日本人にとって子供というのは、タダで手に入る奴隷でした。家畜と同じです。だから子供を作るのにためらいはありませんでした。子供が産まれるというのは労働力が増えることです。もしも産み過ぎたら、間引きをしていました。罪悪感はなかったようです。今でも同じです。日本人は「使えない障がい者や老人は○ねば良い」という価値観の持ち主です。日本には、AIやロボットは要りません。人間にやらせればいいのです。

 

日本の新入社員は、20代の貴重な日々を、その会社特有のしきたりを覚えたり、専門ではない分野をいちから学んだりといった事に使います。それでいて幹部社員になれるのは一部に過ぎません。もしも彼らが途中で放り出されたら、何の使い道もありません。

 

日本で人が使い倒されてしまうのは、使っている側の問題だけではなく、使われる方にも問題があります。

日本人は偉い人に対して逆らいません。上位の者も、下にいちいち細かい指示を出したりはしません。その代わりに、下の者があれこれ忖度して動いてくれるというのが、日本の組織で見られる姿です。

「上の人を煩わせてはいけない」という考えで彼らは動きます。偉い人が懸念を示すのを、彼らは何より恐れます。そのためにいろいろと気を回し、くだらない仕事がどんどん増えていきます。生産性はどうでも良いのです。

 

日本は失敗に厳しい社会です。上の人達に迷惑をかけるからです。社内では、全てが予定調和で動き、全てが想定内の結果に収まらなければなりません。公になるようなインシデントを起こしたら、誰かのクビが飛びます。

人間は、ミスを恐れるようになると仕事の効率が下がるものです。脳のワーキングメモリの容量は知能指数とほぼ比例しますが、レベルの低い労働者はミスを犯さないように気をつけることだけで、メモリのほとんど使い切ってしまうのです。

 

連中は、仕事で失敗をしないように全精力を傾けます。そこだけは頑張ります。そもそも彼らは、自分の中にミッションというものを持っていないのです。だから、努力をする割には、やっていることが見当外れです。「何のために仕事をしているのか?」と問われても答えようがありません。

「日本のため」「会社のため」「誰それのため」と言っても、彼らがそれらを信頼していたり、愛していたりするのではありません。他人に叩かれるのを極度に恐れているだけなのです。DNAに刻まれた本能的なものです。村八分にされるのは、それほど恐ろしいことだったのです。

資本主義の社会では、頑張れば報われるという動機で人は働きます。ところが日本では、周りの圧力で言われるがままに動いているだけなのです。新しいことをすれば足を引っ張られます。仕事が面白くないので創意工夫もありません。

 

日本では、楽しそうに仕事をしていると、周りを不快にさせてしまいます。楽な作業でも、深刻な顔をして、期限の少し前辺りで仕事を完成させるようにしないといけません。そうでないと、仕事を与えた側も負荷が軽すぎたのではないかと考え、もっと重い作業を命じるようになります。あるいは、何処かで手を抜いたのではないかと思われてしまいます。定められた時間内は、皆と同じように、きっちりと苦しまないといけないのです。日本では能力があってもそれを発揮することができません。成果も上げられません。

 

人間というのは、頑張ったことを褒められた時に最大の結果を出すことができます。「君は優秀だ」「素晴らしい成果を上げてきた」と言われると、逆に実力を発揮できないことが分かっています。リスクを冒さないように、得意な範囲内で無難に仕事をこなすように、無意識のうちに動いてしまうのです。他人によって判定される評価報酬制度も、実は良くないのです。人間というのは、内面的な規律に従った結果で喜びを感じる存在だからです。

 

日本人は社会や他人をどう捉えているのでしょうか? 彼らの頭には、世間という大きな地図があります。その片隅に自分が小さく存在しています。まともな人間の脳内マップはこれとは異なります。まず自分という存在と境界がはっきりしています。それと対等な存在として、他人がいます。そして絶対的な存在が、これもまた対等なものとして存在するのです。この3者が平等に三角形をなし、相互作用をするという世界観です。

自分の存在が頭の中で明確になれば、自分のミッションも自ずから明らかになっていきます。誰かのためではなく、使命感によって、労働すること自体が楽しみとなるのです。ミッションは達成されなくても構いません。むしろ簡単に達成されてしまうと、そこで人間は努力を止めてしまいます。他人のために頑張るのではなく、自分のために頑張るのです。

 

日本人は努力を注ぎ込む場所を、いつも間違えています。まずは、人間を軽視するのではなく、もっと重要な存在であると考えることです。もっとも重要なのは自分自身です。自分を愛せるようになれば、他人をも愛せるようになるでしょう。使命感を持ち、リスクをとって頑張ることができるようになるでしょう。そしてその対価は、きっちりと受け取るのです。

 

5%の優秀な人間に支えられているのがアメリカだと言うのならば、95%の奴隷が国を支えているのが日本です。使命感を持った優秀な人間が国を動かすべきです。そうでなければ、たとえ少子化が解消し、移民が増えたとしても、日本の問題は決して解決しないでしょう。人間の価値はさらに下落し、生産性は低いままにとどまるでしょう。

 

軍事力増強というは安直な方法です。需要がなくても幾らでもカネを注ぎ込めます。財源は税金です。いざ戦争になれば、凄まじい勢いでヒトやモノを消費します。そして大企業は潤います。政治家や役人、企業の幹部は前線に行かされることはありません。実に美味しいビジネスです。人間を使い捨てにする究極のシステムです。しかし、そんなことにも協力してしまうのが日本の庶民なのです。

 

自分はいったい何に仕えているのでしょうか。目を開けてはっきりと見てください。そうすれば、それがただの幻影に過ぎないことがわかるでしょう。

使える脳の鍛え方

成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)