「日本人は何も考えずに他人の真似をしているだけだ」という話はよく聞くところです。日本人の思考はどういった所が劣っているのでしょうか。ひとつには、首尾一貫した一連の思考を維持できないこと。さらには、物事を抽象化することができないこと。この2つの欠陥があります。
日本人はAという刺激を受けると、それまでの経験や記憶は何処へやら、それに対応するA´という思考一色になってしまいます。次にBという刺激を与えると、今度はそれに照応されるB´という考えだけになります。コ〇ナ、コ〇ナと騒がれていても、オ〇ンピ〇クと聞くと、それまでの事をすっかり忘れてしまうのです。
彼らは犬のようなものです。与えられた環境に合わせて、脳内に思い浮かぶ内容が次々と変わっていきます。「いまこの時」に適応するだけで手いっぱいなのです。
飼い主が現れると尾っぽを振って喜びます。しかし飼い主が目の前から消えると、直ぐにそれを忘れてしまうのです。日本人はこれと同じです。
彼らの頭の中は、中心のないマインドマップのようなものです。思考に脈略がなく、その場の刺激に応じて移り変わっていきます。自分自身で思考を導いたり、制御したりすることが出来ません。次々に現れる連想の海を漂っています。深く考えることも出来ないので、思い付きのような浅薄なアイデアを出してきます。時に、現場が慎重に検討したうえで出してきた計画を滅茶苦茶にしたりします。
彼らは物事を抽象化することも苦手です。目の前の現象をそのままに捉えます。そこから一般法則を導き出して学習することができません。因果関係を見出したり、神話のような壮大な物語を作ることもできなかったのです。具体から抽象、抽象から具体といった変換ができない人たちです。
彼らが現象をそのままに捉えているからと言って、客観的に物事を観察出来ている訳ではありません。むしろ彼らの思考は、好悪の感情に直接つながった原始的なものです。「舐められた」「思い知らせる」「見返してやる」「ざまあみろ」といった、他国や他人に対する露骨な憎悪で動く人たちです。犬やチンパンジーのように、ちょっとした刺激で歯をむき出しにして怒ったり、反対に、はいつくばって従順に従ったりします。
つまり彼らは、扁桃体レベルで物事を判断しているのです。新皮質レベルで「ちょっと待てよ」と冷静に考え直すことが出来ないのです。
未開人は目に見えないものが苦手です。彼らは抽象的な「神」を想像する事ができませんでした。その代わりに、動物や自然現象そのものを拝んだりします。いたるところに畏怖すべきものがあり、不安や恐怖で満ちています。儀式や「しぐさ」によって「呪い」を解こうとします。迷信深い連中です。
問題を根本に遡って論理的に解決することが出来ず、その代わりにボスザルに頼ったり、集団で寄り添うしか手が無かった人達なのです。未だに未開人と同じような傾向を持っています。
今まで述べてきたような思考の欠陥は、日本の知能検査や学力試験で引っかからないのがやっかいなのです。本来なら淘汰されるべき人間が生き残っています。居てはならない地位に、相応しくない人間が収まっています。
西洋では、知の伝統を引き継ぐ人間はどうあるべきか、どのような能力を持つべきであるかという事を常に考えてきました。思考力は人間が誇るべき、もっとも高度な能力です。小手先の試験で判別できるようなものではありません。だからそういった大学は試験の結果だけでなく、面接を重視します。面接官も基準と照らし合わせながら判断し、複数人で行うのが普通です。こうして教育の効果が期待できる人材を吸い上げていくのです。
リベラルアーツを重要視する大学では、こういった思考力の大切さを知っており、そこに重きを置いています。大量の書物を読み、フィールドワークや実験を通じて、そこから自分なりの考えや、一般法則を導き出します。こういった思考力は人から人へと伝達できます。とはいえ、ハウツー本やネットの記事などで簡単に学べるものではありません。
第2次世界大戦時に志願して米軍の士官となった大卒の人々が、優秀であった事はよく知られています。その頃のアメリカでは、出自にかかわらず、人間は教育の機会を平等に与えられるべきだと考えられていました。それが判断力を持つ有権者を作ることになり、理想的なデモクラシーが機能すると考えたのです。各地に駅弁大学が作られましたが、そこで多くの人々が、自分で考え判断する術を身に着けたのです。
周りの環境に流されることなく、常に自分の軸を持ち、主体的かつ批判的に情報を検証して、そこに新たな自分なりの付加価値を与えられる。そしてそれを共有し、それが正しいか間違っているかを、皆で検証することができる。こういった人間を生み出すことを、本来の大学は目的としているのです。
しかるに日本では「三角関数や微分・積分なんぞは、何の役にも立たない」と考えられています。それならば確かに、教育は小学校レベルでも十分です。簡単な文字が読めて、言われた通りに素直に動く訓練さえ受けていればいいのです。しかし他の社会と比べて、教育者の掲げる目標レベルの何と低いことでしょうか!
間違った教育や躾により、大量の愚民が発生しています。「左脳と前頭葉の発達が悪いのではないか」と思われる人々です。言語操作能力に劣り、自我の発達も悪い連中です。リスクを考慮して計画を立てることも出来ません。
彼らは小さい頃から虐待を受け、反射的に従うように訓練されています。考える習慣を持ちません。日常的に激しい叱責や罵倒を受ける事によって、人は冷静さを失うか、鈍感になります。一人で静かに考える環境もなく、前頭葉の働きも悪くなっていきます。もはや「人間」とは言えない人たちです。
いつの時代でも、どこの国でも、愚民は多いものです。しかしながら本来はエリートと呼ばれる人たちまで愚民になってしまった、それが日本の悲劇なのです。
グローバル化時代の大学論2 - イギリスの大学・ニッポンの大学 - カレッジ、チュートリアル、エリート教育 (中公新書ラクレ)